献堂17周年記念 宣教礼拝


ルカの福音書15章11節~32節

ヘンリ・ナウエンの著書に 『 放蕩息子の帰郷 』 がある。
ちょうど13年前に出会った書ですが、彼の心の扉を開いて見せてくれた、印象的で挑戦的な一フレーズがあります。 “ わたしが初めてレンブラントの絵を見た時、悔い改めた息子になることが、人々を歓迎する父となるための一歩に過ぎないなどとは夢にも思わなかった。今の私は、赦し、慰め、癒し、そして祝宴の食事を用意するあの両手が、私自身の両手にならなければならないと気付いている。『 放蕩息子の帰郷 』 を思い巡らしてきて、父となるという結論に導かれたことに、私自身驚く ” と。
cf. 『 放蕩息子の帰郷 』 レンブラントの聖画絵葉書。
聖霊の導きを得て 《 宣教の拠点を移転 》 との名のもと、献堂に導かれて迎えた17周年の記念宣教礼拝の朝、私たち一人一人が、そして教会が、再認識しなければならないことは、正にこの一点にあると申し上げて、Message としたい。
この物語に表された 《 父となるということ 》 は兄息子、弟息子を愛した「父」、即ち、御子キリストをこの世に遣わされた父なる神、父と完全に一つであられた主ご自身に似せられた者となるということに他ならない。ヘンリ・ナウエンが正に、私たち誰しもが皆、この 《 父になるようにと召されている、招かれている 》 と言っている、それである。
この物語は、主の生活を見て ※ 2節 「この人は、罪人たちを受け入れて、【彼らを相手に説教するだけではない、何と汚らわしいことに !!】食事までいっしょにする。」と呟( つぶや )いたパリサイ人、律法学者たちを諭す目的で語られたのである。

「罪人を受け入れて、食事まで一緒にする」父に怒りをぶつけ、自らの義を立てて抗議し、28節 「おこって、家にはいろうともしなかった」兄に、その彼らを重ねてである。その結論は、32節 「楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」にある。
この物語は、羊を百匹持っている人が、その内の一匹をなくしたというので、その一匹の為に、「見つけるまで捜し歩かないでしょうか」との問い掛けに始まった。
実に私たちは、その失われた一匹の羊、主に捜し出して頂かない限り、本来いるべき羊飼いの許に戻ることの出来ない者だった。イザヤの証言通り、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」からである( イザ 53・6 )。何ということでしょう !! 今、私たちは、羊飼いに見付け出され、詩篇 23篇で許され、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と告白したダビデと共に歌い、クリスチャン生活を感謝している。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても」である。
しかし物語は、ここが終着駅ではないことを教えているというのが、先にご紹介した、ナウエンの言葉、否、主ご自身が打ち明けておられる Message だとして受け止めたい。
私たちは皆、見付け出された自らが、12節 「私に財産の分け前を下さい」と、不躾( ぶしつけ )で、乱暴で身勝手な態度で父から財産を奪い取り、そそくさと旅立った弟息子だと知らされたお互いです。父から離れた生活に見たものは、彼の思い描いていた 《 父の干渉なしに生きる自由 》 とは全く裏腹な束縛。そして、我に返った彼の言葉【17節~19節】に見る激しい渇き。

その初めは、弟息子ほどの渇きもなければ、罪の自覚があった訳でもないのに、いつの間にか、羊飼いの腕に抱かれていて、その腕の温もりの中で徐々に、抱いていた疑い・誤解が解かれ、自ら正真正銘の罪人であることに気付かされたのかも。
いずれにせよ、罪の自覚によって、十字架上で流された赦しの恵みを知り、罪は犯すまじきものとの自覚に導かれた。
ところが間もなく、兄息子こそが私だ !! ということに気付くようにされて来た。28節~30節で露わにされた内なる性質【彼の根にあったもの】は、私は良くやって来たのに、それなのに 《 この人は !! 》 と、弟への非難で治まらず、それを赦す父への恩知らずな非難を口にする、自己義の醜さなのだ。
コリント人への手紙 第一 13章の「たとい・・・、私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません・・・」という光に、耐えられないのが、この自己義の正体だと言うのに。
私たちは経験して来ました。 “ 私はこれだけやって来たのに、この反応は、この仕打ちは、この待遇は、この・・・ ” と反応する内なる貧相な現実に、何悲しんで来たことでしょうか。
しかし弟息子が、犯した罪の事実に悲しみ、父の愛に渇いた時に赦しを経験したように、もし自らの内的貧困さに痛み、悲しみ、パウロのように「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 ローマ人への手紙 7章24節」と激しく渇くことを知ったならば、その時にだけ、そこにだけ届く、十字架の血による清めがあるとの信仰に与らせ頂いたのではないか !!

しかし福音は、ここから本領を発揮するのだ。
パウロは、ローマ人への手紙 1~8章 《 罪の赦しから始まった清めの福音を経験して 》 8章37節~39節 「私はこう確信しています。死も、いのちも・・・私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と凱歌をあげた時、ふと神に捨てられたイスラエル人のことを思い、突然、彼は激しい痛みに襲われて、9章1節~3節と叫んだのだ。
イザヤ書 6章5節~8節のイザヤも然り、「ここに、私がおります・・・」と。
自らの内的腐敗性に気付かされて、清めの信仰に導かれたパウロもイザヤも、弟息子を抱き、兄息子にも心を砕いた父になって、生涯を捧げた器たちなのだ。これが Message !!
即ち、父の「自分の利益を求めない」、コリント人への手紙 第一 13章の愛に徹して生きる生涯を。4節の、「見つけるまで捜し歩く」極みまで待つ愛。身を持ち崩した弟息子の「雇い人のひとりにしてください。19節」との願いに、憐れまれないでは生きられない貧しい者の姿を見て、自ら近付いた愛。過去の無礼に執着せず、息子の生をのみ喜ぶ愛。喜んで仕えてはいなかった兄息子の抗議によっても妨げられずに「私のものは、全部おまえのものだ。31節」と言うのに躊躇しない愛。
但し、神の愛は、聖に基づいていることを忘れてはならない !! 兄の自己義に対しては、32節で毅然と退けて正した愛。曖昧さがない !!
宣教拠点移転は、ここから始まって、今日を迎えている。
宣教は、主に遣わされた所で 《 愛の器として生きること。即ち、愛の貧しさの新たな気付きに失望せずに感謝し、瞬時十字架の血潮に与りつつ、父の愛への限りない渇きをもって生きること 》 。ここに徹するお互いでありたい。

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