使徒の働き23章1節~11節
先週は、殉教死寸前だったパウロが、その鎖から解かれて後、次の弁明に向かうことになった場面でのこと。20章24節 「主イエスから受けた・・・任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思」わなかったパウロの生き様に注目して、キリスト者としての在り方に光を頂いた。
ⅰ 22章18節 「主を見たのです。主は言われました。」と、 《 主との個人的な関係について 》 淡々と証した姿勢。
ステパノにおいても同様。パウロがこの姿勢を取った時、 その内容が 《 ユダヤ人が依然として福音を受け入れないことを知って、主が福音をユダヤから移し、異邦人に届ける計画を持っておられること 》 だった為、選民の特権意識を持っていた彼らは、22節 「話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて」とパウロへの怒りを露わにした。
ⅱ 25節 「彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。『 ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。 』 」と、 《 聖霊の知恵 》 によった行動。
この「むち」は、ローマ人による恐ろしい拷問の道具で殺人的性質のものだったが、窮地に立たされたパウロは冷静だった。今後のローマ宣教の為、ここで命を絶ってはならないとの強い使命感による知恵である。自らの市民権を持ち出して百人隊長に鋭い詰問をし、難を逃れた !! 自らの身を守る為のものではない。遂に ※ 30節で最高議会が召集され、弁明の機会を得て、ローマ行きに備えることになる。
※ 主の聖名の為にのみ生きる者の生き様を探られたい、と。
今朝は、パウロがローマの市民権保持者であると知った千人隊長がその事実に恐れて、急きょ、エルサレム最高議会に召集を掛け、パウロを取り巻く騒動の原因が何処にあるのかを知ろうとした場面での 《 パウロの弁明 》 に注目したい。
パウロは開口一番、23章1節 「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。【新共同訳 : あくまでも良心に従って】」と告白しているが、そこに学びたい。
彼は、自らが神の前に受け入れられているとの内的確信を証するのに、しばしばこの「良心」という言葉を使っている。
24章16節 「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」/コリント人への手紙 第二 1章12節 「・・・によって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」/テモテへの手紙 第二 1章3節 「・・・先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。」と。
この「良心」について、私たちは、自分自身の何らかの行動を起こす際に、善悪を判断するところと理解している。
悪を思い止まらせては善を促す。あるいは、自らが過ったことをしてしまった時には咎めを感じさせ、善を慕わせる。
この良心は、アダムの堕罪によって人の心から失われはしなかったが、悲しいかな、神の物差しに基づく判断規準に取って代わって自己本位を規準とする罪の影響下に置かれた。
テモテへの手紙 第一 4章1節~5節 「良心が麻痺しており」、テトスへの手紙 1章15節 「その知性と良心までも汚れています。」とある。
ところが何と !! この麻痺し、腐敗し、汚れた良心から、パウロの告白のように「全くきよい良心をもって」と言える生活に導かれているのがキリスト者であるとの救いに感謝したい。
へブル人への手紙 9章14節 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とある。
但し、「生ける神に仕える者とする」というこの恵みも又、自動的に与えられるものではなく、「どんなにか・・・良心を」と、自らの言動にしっかり光を当てて頂きながら吟味する真面目さが必要であり、責任があることを自戒したい。
パウロのこの「・・・生活して来ました」と言い切っている姿勢によって、こうした営みの真剣さが十分伝えられているが、その実際的な振る舞いに注目して、Message としたい。
① 大祭司アナニヤへの対応に。
アナニヤは、パウロが開口一番に発したこの言葉に憤りを露わにしていきり立ち、2節 「彼の口を打てと命じた」が、これを受けたパウロの出方に注意したい。
アナニヤに向かって、3節 「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる・・・」とは、何という大胆さ。
主がパリサイ人たちに「白く塗った墓」と仰ったのに同様である( マタイの福音書 23章27節 )。又、十字架を前にして尋問された時の主と重なる( ヨハネの福音書 18章19節~23節 )。主は実際、役人のひとりから「大祭司にそのような答え方をするのか」と言われ、平手打ちを食らった。
主は、議会の最高責任者の堕落( 神的権威の私有化、道徳的・霊的腐敗 )を糾弾し、問責して責任ある態度を取られた。
パウロも又、4節 「あなたは神の大祭司をののしるのか」と詰問されたが、彼の答えは、5節 「大祭司だとは知らなかった・・・」だった。知らなかったのか ? 否、知ってのこと。偽って、「知らなかった」と言ったのか ? アナニヤは冒涜的で欲深く短気な人と評され、数年後、熱心党員によって暗殺されたとの事実から、これは預言だったと指摘されている。
とすれば、パウロの目に映ったアナニヤが仮に大祭司の身なりをしていようと、議長の立場に君臨していようと、自ら堂々と律法を破っているならば無価値で無意味なこと。
実際、大祭司とは認めようがなかったとの意味で正解 !!
② 全議会への対応に。
6節では、エルサレム最高議会の二大勢力 《 パリサイ人とサドカイ人 》 を二分する手立てを講じ、遂には、10節 「論争がますます激しくなったので・・・」と、議会は解散に追い込まれることに。
※ いずれも、非難を受け兼ねない対応のようにも見える。しかし人間的な詮索を差し控えて、11節 「その夜、主がパウロのそばに立って」言われた聖句から判断すべき。
主からの咎めはなく、むしろ激励のお言葉が掛けられたのだ。しかも「エルサレムで・・・あかししたように、ローマでも」とは、主からの太鼓判が押されたのだ。互いに必要なこと、〈 鋭敏な良心をもっての言動 〉に留意すべきと心したい。
先週は、殉教死寸前だったパウロが、その鎖から解かれて後、次の弁明に向かうことになった場面でのこと。20章24節 「主イエスから受けた・・・任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思」わなかったパウロの生き様に注目して、キリスト者としての在り方に光を頂いた。
ⅰ 22章18節 「主を見たのです。主は言われました。」と、 《 主との個人的な関係について 》 淡々と証した姿勢。
ステパノにおいても同様。パウロがこの姿勢を取った時、 その内容が 《 ユダヤ人が依然として福音を受け入れないことを知って、主が福音をユダヤから移し、異邦人に届ける計画を持っておられること 》 だった為、選民の特権意識を持っていた彼らは、22節 「話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて」とパウロへの怒りを露わにした。
ⅱ 25節 「彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。『 ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。 』 」と、 《 聖霊の知恵 》 によった行動。
この「むち」は、ローマ人による恐ろしい拷問の道具で殺人的性質のものだったが、窮地に立たされたパウロは冷静だった。今後のローマ宣教の為、ここで命を絶ってはならないとの強い使命感による知恵である。自らの市民権を持ち出して百人隊長に鋭い詰問をし、難を逃れた !! 自らの身を守る為のものではない。遂に ※ 30節で最高議会が召集され、弁明の機会を得て、ローマ行きに備えることになる。
※ 主の聖名の為にのみ生きる者の生き様を探られたい、と。
今朝は、パウロがローマの市民権保持者であると知った千人隊長がその事実に恐れて、急きょ、エルサレム最高議会に召集を掛け、パウロを取り巻く騒動の原因が何処にあるのかを知ろうとした場面での 《 パウロの弁明 》 に注目したい。
パウロは開口一番、23章1節 「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。【新共同訳 : あくまでも良心に従って】」と告白しているが、そこに学びたい。
彼は、自らが神の前に受け入れられているとの内的確信を証するのに、しばしばこの「良心」という言葉を使っている。
24章16節 「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」/コリント人への手紙 第二 1章12節 「・・・によって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」/テモテへの手紙 第二 1章3節 「・・・先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。」と。
この「良心」について、私たちは、自分自身の何らかの行動を起こす際に、善悪を判断するところと理解している。
悪を思い止まらせては善を促す。あるいは、自らが過ったことをしてしまった時には咎めを感じさせ、善を慕わせる。
この良心は、アダムの堕罪によって人の心から失われはしなかったが、悲しいかな、神の物差しに基づく判断規準に取って代わって自己本位を規準とする罪の影響下に置かれた。
テモテへの手紙 第一 4章1節~5節 「良心が麻痺しており」、テトスへの手紙 1章15節 「その知性と良心までも汚れています。」とある。
ところが何と !! この麻痺し、腐敗し、汚れた良心から、パウロの告白のように「全くきよい良心をもって」と言える生活に導かれているのがキリスト者であるとの救いに感謝したい。
へブル人への手紙 9章14節 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とある。
但し、「生ける神に仕える者とする」というこの恵みも又、自動的に与えられるものではなく、「どんなにか・・・良心を」と、自らの言動にしっかり光を当てて頂きながら吟味する真面目さが必要であり、責任があることを自戒したい。
パウロのこの「・・・生活して来ました」と言い切っている姿勢によって、こうした営みの真剣さが十分伝えられているが、その実際的な振る舞いに注目して、Message としたい。
① 大祭司アナニヤへの対応に。
アナニヤは、パウロが開口一番に発したこの言葉に憤りを露わにしていきり立ち、2節 「彼の口を打てと命じた」が、これを受けたパウロの出方に注意したい。
アナニヤに向かって、3節 「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる・・・」とは、何という大胆さ。
主がパリサイ人たちに「白く塗った墓」と仰ったのに同様である( マタイの福音書 23章27節 )。又、十字架を前にして尋問された時の主と重なる( ヨハネの福音書 18章19節~23節 )。主は実際、役人のひとりから「大祭司にそのような答え方をするのか」と言われ、平手打ちを食らった。
主は、議会の最高責任者の堕落( 神的権威の私有化、道徳的・霊的腐敗 )を糾弾し、問責して責任ある態度を取られた。
パウロも又、4節 「あなたは神の大祭司をののしるのか」と詰問されたが、彼の答えは、5節 「大祭司だとは知らなかった・・・」だった。知らなかったのか ? 否、知ってのこと。偽って、「知らなかった」と言ったのか ? アナニヤは冒涜的で欲深く短気な人と評され、数年後、熱心党員によって暗殺されたとの事実から、これは預言だったと指摘されている。
とすれば、パウロの目に映ったアナニヤが仮に大祭司の身なりをしていようと、議長の立場に君臨していようと、自ら堂々と律法を破っているならば無価値で無意味なこと。
実際、大祭司とは認めようがなかったとの意味で正解 !!
② 全議会への対応に。
6節では、エルサレム最高議会の二大勢力 《 パリサイ人とサドカイ人 》 を二分する手立てを講じ、遂には、10節 「論争がますます激しくなったので・・・」と、議会は解散に追い込まれることに。
※ いずれも、非難を受け兼ねない対応のようにも見える。しかし人間的な詮索を差し控えて、11節 「その夜、主がパウロのそばに立って」言われた聖句から判断すべき。
主からの咎めはなく、むしろ激励のお言葉が掛けられたのだ。しかも「エルサレムで・・・あかししたように、ローマでも」とは、主からの太鼓判が押されたのだ。互いに必要なこと、〈 鋭敏な良心をもっての言動 〉に留意すべきと心したい。
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