使徒の働き21章1節~14節
先週は、ミレトでのパウロの告別説教の中から 《 エペソ教会の長老たちへの勧告 》 に学び、その勧告を 《 主の弟子としての在り方 》 として受け止めさせて頂いた。
ⅰ 28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。」と 《 群れの全体に気を配る 》 前に 《 自分自身に気を配る 》 この順序である。
「気を配る」とは 《 神さまとの関係の正しさの如何に 》 である。自分自身の霊的状態の吟味を怠り、無頓着でありながら、( 霊的な意味合いにおいて )隣人に仕えることは出来ないからである。
ⅱ その上で、31節 詳訳 「目をさましていなさい ― 油断しないで〈 警戒して 〉ください」と、教会建設は、内部の霊的状態に気を配るだけではなく、外部からの動きにも気を配る賢明さが必要であるとの忠告である。
29節~30節 「私が出発したあと・・・」とパウロが警告していることが、現実の事となるからである。
ⅲ 32節a 「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。」と、パウロからもう二度と顔を見ることがないと言われた長老たちは、この言葉を重く受け止めて立ち上がらなければならなくされた。
32節b 「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって【人々と共に】御国を継がせることができるのです。」とあるみことばの力への信仰を持つように求められたのだ。
※ 懇ろに語られるところに誠実に応じる者でありたい、と。
今朝は、いよいよミレトでの告別説教を終えて後、長老たちと別れを告げ、エルサレムに上って行く過程を記している記事から 《 パウロの信仰の姿勢 》 に学びたいと思います。
お配りしている地図 《 パウロのエルサレムへの最後の旅 》 を見て頂くと、ミレトを発って、1節 「コス ⇒ ロドス ⇒ パタラ」 ⇒ 3節 「ツロに上陸」 ⇒ 7節 「トレマイ」 ⇒ 8節 「カイザリヤ」、そして遂にエルサレムへ上ることになる旅。ほぼ、ミレトから旅立って一か月程だったと計算されるようだ。
この間、パウロは至る所で弟子たちに出迎えられ、その都度別れを惜しまれながらエルサレムに送り出されている。
それと言うのも、パウロが、殉教覚悟で語ったミレトでの告別説教があったからである。特に、20章22節~25節 「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし・・・できるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません・・・」との言葉。
更に弟子たちにも、21章4節b 「御霊に示されて」、11節b 「 『 この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される 』 と聖霊がお告げになっています」との、聖霊の示しがあったからである。
ところが、どのような警告にも応じることなく、パウロのエルサレム行きの決意は変わらず一貫していた。
私たちは、この事実をどのように考えれば良いのか ?
パウロと弟子たち両者とに聖霊は 《 パウロには、エルサレムでの縄目と苦しみとが待っている 》 と告げているのだが、同じことを聞いた時の両者の反応に違いがあるという点を。
① パウロが、弟子たちの忠告に従わなかったからと言って、 聖霊の導きに対する不服従だったと考えるべきではないこと。
何故ならば、聖霊の示しは、エルサレムでの捕縛と苦しみの予告だけであって、禁じられた訳ではないからである。
むしろパウロは、19章21節 詳訳 「マケドニヤとアカヤを巡ってからエルサレムに行こうと聖霊に導かれて決意し、『 私は、そこに行った後、ローマをも尋ねなければならない 』 と言った」と、エペソでの獣と戦った最中での確信が。
しかもパウロは、主の劇的な顕現を受けた時、9章15節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを・・・示す」と、その都度示され続けて来ていることだからである。
パウロは間違っていなかった。
後の事になるが、聖霊の示し通り、エルサレムに到着するや否や捕縛され、エルサレムの最高議会が召集されることになった。議会が荒れた、23章11節 「その夜、主がパウロのそばに立って、『 勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない 』 と言われた。」とあるのだから。パウロとしても、どちらの選択も可能だったが !!
何と言っても、「聖霊のお告げ」を拒絶せずに受けて従うことこそ、パウロが救われた時からの決意だったのだ。21章13節 「 『 あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています 』 と答えた。」とあるように。
② 弟子たちが、4節 「エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した」のも、12節 「私たちはこれを聞いて・・・上らないよう頼んだ」のも、困難を予告された聖霊の導きによってではなく、極めて人間的・個人的な友情によるものでしかなかったのだ。
主がエルサレム行きを弟子たちに吐露された時、ペテロが主を引き留めたことがあった。パウロを引き留めようとした弟子たちの場合とは違い、利己的な動機によるものであった為、マタイの福音書 16章23節 「あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責を受けたが、何れの場合も十分注意したい。
再び 『 使徒の働き 』 21章に戻り、14節 詳訳 「彼が【私たちの】説得を受け入れようとしないので、私たちは【彼に勧めたり、また懇願したりすることを】やめて、『 主のみ旨がなりますように 』 と言った」と出られたことは、幸いである。
※ 「私たち」とある限り、著者のルカでさえも、パウロの心をくじいたのだ。心して主の御心のみを求めて共に従いたい !!
先週は、ミレトでのパウロの告別説教の中から 《 エペソ教会の長老たちへの勧告 》 に学び、その勧告を 《 主の弟子としての在り方 》 として受け止めさせて頂いた。
ⅰ 28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。」と 《 群れの全体に気を配る 》 前に 《 自分自身に気を配る 》 この順序である。
「気を配る」とは 《 神さまとの関係の正しさの如何に 》 である。自分自身の霊的状態の吟味を怠り、無頓着でありながら、( 霊的な意味合いにおいて )隣人に仕えることは出来ないからである。
ⅱ その上で、31節 詳訳 「目をさましていなさい ― 油断しないで〈 警戒して 〉ください」と、教会建設は、内部の霊的状態に気を配るだけではなく、外部からの動きにも気を配る賢明さが必要であるとの忠告である。
29節~30節 「私が出発したあと・・・」とパウロが警告していることが、現実の事となるからである。
ⅲ 32節a 「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。」と、パウロからもう二度と顔を見ることがないと言われた長老たちは、この言葉を重く受け止めて立ち上がらなければならなくされた。
32節b 「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって【人々と共に】御国を継がせることができるのです。」とあるみことばの力への信仰を持つように求められたのだ。
※ 懇ろに語られるところに誠実に応じる者でありたい、と。
今朝は、いよいよミレトでの告別説教を終えて後、長老たちと別れを告げ、エルサレムに上って行く過程を記している記事から 《 パウロの信仰の姿勢 》 に学びたいと思います。
お配りしている地図 《 パウロのエルサレムへの最後の旅 》 を見て頂くと、ミレトを発って、1節 「コス ⇒ ロドス ⇒ パタラ」 ⇒ 3節 「ツロに上陸」 ⇒ 7節 「トレマイ」 ⇒ 8節 「カイザリヤ」、そして遂にエルサレムへ上ることになる旅。ほぼ、ミレトから旅立って一か月程だったと計算されるようだ。
この間、パウロは至る所で弟子たちに出迎えられ、その都度別れを惜しまれながらエルサレムに送り出されている。
それと言うのも、パウロが、殉教覚悟で語ったミレトでの告別説教があったからである。特に、20章22節~25節 「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし・・・できるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません・・・」との言葉。
更に弟子たちにも、21章4節b 「御霊に示されて」、11節b 「 『 この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される 』 と聖霊がお告げになっています」との、聖霊の示しがあったからである。
ところが、どのような警告にも応じることなく、パウロのエルサレム行きの決意は変わらず一貫していた。
私たちは、この事実をどのように考えれば良いのか ?
パウロと弟子たち両者とに聖霊は 《 パウロには、エルサレムでの縄目と苦しみとが待っている 》 と告げているのだが、同じことを聞いた時の両者の反応に違いがあるという点を。
① パウロが、弟子たちの忠告に従わなかったからと言って、 聖霊の導きに対する不服従だったと考えるべきではないこと。
何故ならば、聖霊の示しは、エルサレムでの捕縛と苦しみの予告だけであって、禁じられた訳ではないからである。
むしろパウロは、19章21節 詳訳 「マケドニヤとアカヤを巡ってからエルサレムに行こうと聖霊に導かれて決意し、『 私は、そこに行った後、ローマをも尋ねなければならない 』 と言った」と、エペソでの獣と戦った最中での確信が。
しかもパウロは、主の劇的な顕現を受けた時、9章15節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを・・・示す」と、その都度示され続けて来ていることだからである。
パウロは間違っていなかった。
後の事になるが、聖霊の示し通り、エルサレムに到着するや否や捕縛され、エルサレムの最高議会が召集されることになった。議会が荒れた、23章11節 「その夜、主がパウロのそばに立って、『 勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない 』 と言われた。」とあるのだから。パウロとしても、どちらの選択も可能だったが !!
何と言っても、「聖霊のお告げ」を拒絶せずに受けて従うことこそ、パウロが救われた時からの決意だったのだ。21章13節 「 『 あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています 』 と答えた。」とあるように。
② 弟子たちが、4節 「エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した」のも、12節 「私たちはこれを聞いて・・・上らないよう頼んだ」のも、困難を予告された聖霊の導きによってではなく、極めて人間的・個人的な友情によるものでしかなかったのだ。
主がエルサレム行きを弟子たちに吐露された時、ペテロが主を引き留めたことがあった。パウロを引き留めようとした弟子たちの場合とは違い、利己的な動機によるものであった為、マタイの福音書 16章23節 「あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責を受けたが、何れの場合も十分注意したい。
再び 『 使徒の働き 』 21章に戻り、14節 詳訳 「彼が【私たちの】説得を受け入れようとしないので、私たちは【彼に勧めたり、また懇願したりすることを】やめて、『 主のみ旨がなりますように 』 と言った」と出られたことは、幸いである。
※ 「私たち」とある限り、著者のルカでさえも、パウロの心をくじいたのだ。心して主の御心のみを求めて共に従いたい !!
この記事へのコメント