使徒の働き20章28節~32節
先週は、第三次伝道旅行も終盤になってエルサレム行きを急いだパウロが、エペソに立ち寄らずに、教会の長老たちをミレトに迎えて取り次いだ説教で、18節 「最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。」と言い得たパウロの充実感は何処に ? と学んだ。
ⅰ 19節 「私は・・・主に仕えました。」との仕えるべきお方を明確にしていた確信から。
もし良きにつけ悪しきにつけ、いつでも人が意識される時、一喜一憂する。何故 ? 人の出方に左右され、自らが携わっている事自体に疑念を抱き、動揺することになるから。
ⅱ 20節~21節 「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました・・・」、27節 「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせて」、31節 「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」と、福音の真理は十分伝えたとの確信から。
パウロの個人的な主との出会いについての証【自らが罪人であるとの謙った告白】/神に対する悔い改め【過去の生き方からの徹底した方向転換に ⇒ 19章18節~19節】の勧め/主イエスの十字架による赦しと清めを信じる信仰。
ⅲ 33節~35節にある良心的に明け渡された生活の確信から。
24節 「・・・あかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」との告白に生きた証である。
※ パウロのこの確信は ※ 28節~31節a 「目をさましていなさい。」との忠告に説得力を与えた。信頼関係の鍵はここにあると。
今朝は、先週に引き続き、パウロの告別説教の中から 《 長老たちへの勧告 》 に学び、その勧告を 《 主の弟子としての在り方 》 として、しっかり受け止めたい。
① 28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」。
重要な留意点は 《 群れの全体に気を配る 》 前に 《 自分自身に気を配る 》 ようにとの、この順序である。
長老たちは、「神の教会を牧させる【世話をし、養い、導かせる】ために、群れの監督【見守る者】に立てられた人々」であるが、その長老たちへの勧告は、実はパウロが信仰生活を送る上で常に自らに言って聞かせ、又他の人々にも強調して語っていることである。
パウロは、テモテへの手紙 第一 4章16節 「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」とテモテを指導した。
「気を配る」とは 《 神さまとの関係の正しさの如何に 》 である。テモテへの直接的な指導を見ると、詳訳聖書 同 12節~15節 「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読( 私的に聖書を読む事 )・・・聖霊によって直接与えられた( 特別な内的な才能 )をおろそかにしてはなりません」とある。
即ち、私的に聖書を自らの糧として読み、聖霊による歩みの真面目さ、光の中を歩むところから当然放たれる言動の吟味である。
いつでも霊的働きとは、テモテへの手紙 第二 2章21節 「・・・だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります・・・」であり、自分自身、霊的状態の吟味を怠り、無頓着でありながら、隣人に仕えるという主の用に適うことはあり得ないからである。
こうした指導は、パウロ自身、コリント人への手紙 第一 9章27節 「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」と、自らの弱さ、傾向性の何なるかを知っていたからである。
使徒の働き 1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」が、宣教命令に従って出て行く前に取らなければならなかった態度であり、そこに通じる指導なのだ。この事は、一回限りのことではなく、生涯的な霊的営みとしての順序が伝えられているのだ。
② その上で、31節 詳訳 「目をさましていなさい ― 油断しないで〈 警戒して 〉ください」。
教会建設は、内部の霊的状態に気を配るだけではなく、外部からの動きにも気を配る賢明さが必要であるとの忠告。29節 「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」。又、それらの影響下にあって、30節 「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」と。
30年余の後に書き送られた ※ 黙示録 2章1節には、そのことが現実となった様子が伝えられている。同 2節 「使徒と自称しているが実はそうではない者たち ⇒ ユダヤ主義者【律法を守ることによって義とされると、未だに主張する人々】」、同 6節 「ニコライ派の人々 ⇒ 不品行、偶像礼拝を持ち込む人々」の侵入。エペソ教会は、彼らを批判しているうちに神の愛を失った。しっかりとした洞察力・批判力が、神の愛に根差したものでなければ、それら善き物も台無しになるからである。
③ 32節a 「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」。
パウロから、25節b 「私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがない」と言われた長老たちは、この言葉を重く受け止めて立ち上がらなければならなくされた。
牧会上、どのような問題を扱わなければならなくされたとしても、32節b 「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって【人々と共に】御国を継がせることができるのです。」とあるみことばの力への信仰を持つように求められたのだ。
私たちが問題に直面するその都度、みことばへの信仰が揺さぶられるが、それでも、32節a 「神とその恵みのみことば」なのだ。みことばへの信仰は、みことばを語っておられる神ご自身への信仰でもある。恵みをもたらすのは、みことばなのだから。
※ 懇ろに語られるところに誠実に応じる者でありたい !!
先週は、第三次伝道旅行も終盤になってエルサレム行きを急いだパウロが、エペソに立ち寄らずに、教会の長老たちをミレトに迎えて取り次いだ説教で、18節 「最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。」と言い得たパウロの充実感は何処に ? と学んだ。
ⅰ 19節 「私は・・・主に仕えました。」との仕えるべきお方を明確にしていた確信から。
もし良きにつけ悪しきにつけ、いつでも人が意識される時、一喜一憂する。何故 ? 人の出方に左右され、自らが携わっている事自体に疑念を抱き、動揺することになるから。
ⅱ 20節~21節 「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました・・・」、27節 「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせて」、31節 「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」と、福音の真理は十分伝えたとの確信から。
パウロの個人的な主との出会いについての証【自らが罪人であるとの謙った告白】/神に対する悔い改め【過去の生き方からの徹底した方向転換に ⇒ 19章18節~19節】の勧め/主イエスの十字架による赦しと清めを信じる信仰。
ⅲ 33節~35節にある良心的に明け渡された生活の確信から。
24節 「・・・あかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」との告白に生きた証である。
※ パウロのこの確信は ※ 28節~31節a 「目をさましていなさい。」との忠告に説得力を与えた。信頼関係の鍵はここにあると。
今朝は、先週に引き続き、パウロの告別説教の中から 《 長老たちへの勧告 》 に学び、その勧告を 《 主の弟子としての在り方 》 として、しっかり受け止めたい。
① 28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」。
重要な留意点は 《 群れの全体に気を配る 》 前に 《 自分自身に気を配る 》 ようにとの、この順序である。
長老たちは、「神の教会を牧させる【世話をし、養い、導かせる】ために、群れの監督【見守る者】に立てられた人々」であるが、その長老たちへの勧告は、実はパウロが信仰生活を送る上で常に自らに言って聞かせ、又他の人々にも強調して語っていることである。
パウロは、テモテへの手紙 第一 4章16節 「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」とテモテを指導した。
「気を配る」とは 《 神さまとの関係の正しさの如何に 》 である。テモテへの直接的な指導を見ると、詳訳聖書 同 12節~15節 「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読( 私的に聖書を読む事 )・・・聖霊によって直接与えられた( 特別な内的な才能 )をおろそかにしてはなりません」とある。
即ち、私的に聖書を自らの糧として読み、聖霊による歩みの真面目さ、光の中を歩むところから当然放たれる言動の吟味である。
いつでも霊的働きとは、テモテへの手紙 第二 2章21節 「・・・だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります・・・」であり、自分自身、霊的状態の吟味を怠り、無頓着でありながら、隣人に仕えるという主の用に適うことはあり得ないからである。
こうした指導は、パウロ自身、コリント人への手紙 第一 9章27節 「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」と、自らの弱さ、傾向性の何なるかを知っていたからである。
使徒の働き 1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」が、宣教命令に従って出て行く前に取らなければならなかった態度であり、そこに通じる指導なのだ。この事は、一回限りのことではなく、生涯的な霊的営みとしての順序が伝えられているのだ。
② その上で、31節 詳訳 「目をさましていなさい ― 油断しないで〈 警戒して 〉ください」。
教会建設は、内部の霊的状態に気を配るだけではなく、外部からの動きにも気を配る賢明さが必要であるとの忠告。29節 「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」。又、それらの影響下にあって、30節 「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」と。
30年余の後に書き送られた ※ 黙示録 2章1節には、そのことが現実となった様子が伝えられている。同 2節 「使徒と自称しているが実はそうではない者たち ⇒ ユダヤ主義者【律法を守ることによって義とされると、未だに主張する人々】」、同 6節 「ニコライ派の人々 ⇒ 不品行、偶像礼拝を持ち込む人々」の侵入。エペソ教会は、彼らを批判しているうちに神の愛を失った。しっかりとした洞察力・批判力が、神の愛に根差したものでなければ、それら善き物も台無しになるからである。
③ 32節a 「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」。
パウロから、25節b 「私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがない」と言われた長老たちは、この言葉を重く受け止めて立ち上がらなければならなくされた。
牧会上、どのような問題を扱わなければならなくされたとしても、32節b 「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって【人々と共に】御国を継がせることができるのです。」とあるみことばの力への信仰を持つように求められたのだ。
私たちが問題に直面するその都度、みことばへの信仰が揺さぶられるが、それでも、32節a 「神とその恵みのみことば」なのだ。みことばへの信仰は、みことばを語っておられる神ご自身への信仰でもある。恵みをもたらすのは、みことばなのだから。
※ 懇ろに語られるところに誠実に応じる者でありたい !!
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