聖日礼拝 『使徒の働き』 より 41


使徒の働き19章8節~20節

先週は、第三次伝道旅行に出掛けたパウロが、エペソに着くや否や出会った「幾人かの弟子」とのやり取りから、先のアポロ同様、彼らが「ヨハネのバプテスマ」の経験しか知らなかった事実に、三つのことを学んだ。

ⅰ 聖霊を知っての信仰生活を送っているのか否か ? は、厳粛にも人に分かるものであること !!

ⅱ その判別は、聖霊によって生活するのか、生来の自我をもって生活するのかで明らかに。
アポロは、【18章24節b~26節a】を見る限り、説教者として良く聖書に精通し、雄弁に語る大胆さがあったが、聖霊経験に欠けていた。その点パウロは自らの弱さを自覚し、人間的なものの全てを空しくして、「御霊と御力の現れでした。」と明言( 第一コリ 2・4 )。
ここで重要なことは、人間的自信というものが悉( ことごと )く砕かれているのか ? 自らの内的貧しさの自覚の如何は ? にある。

ⅲ この聖霊経験は、5節 「主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」を意味する 《 聖霊のバプテスマに与る 》 ことによる。
エペソの弟子たちは、パウロの質問【19章2節a、3節a】があった後、4節~5節でパウロから ※ 【マタイの福音書 3章11節 「聖霊と火とのバプテスマ」についての説明】を受け、その必要性に気付かされて求め、この経験に与った。
罪の赦しによる 《 明確な悔い改めの信仰 》 は、遅かれ早かれ必ずやその人をしてこの経験を求めさせ、与らせる。

※ 十二人ほどの弟子たちは、この聖霊経験をもって初めて、真の弟子として、今後のエペソ教会の担い手となったに違いない、と。


今朝は、弟子との出会いから始まったエペソで、ほぼ三年間に及んだ( 明確な数字だけでも、8節の会堂における三か月、9節のツラノの講堂での二年間 )と考えられる働きに注目したい。
パウロは、このアジヤ地方での宣教を切望していた !!
16章6節 「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」とあったことから、聖霊の導きに従ってアジヤでの宣教を断念していたからだ。
そこには、パウロの健康的状況への配慮も含まれていたのではと、学んだことを記憶しているだろうか。何故なら、その地を離れて「ガラテヤ」に立ち寄ったが、その後の手紙で、ガラテヤ人への手紙 4章13節~14節 「私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。」と言及していることから推し測ることが出来るからと。
又、第二次伝道旅行でエペソに立ち寄った折にも、18章21節 「神のみこころなら、また・・・」と言って、心をエペソに残してその地を去らなければならなかったこともあったからである。
ところが、再度訪ねたこの時には、「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」という( 19・10 )、待望の結実を見ることになっているとは、素晴らしいこと。
このアジヤ地方の結実は、後にヨハネがパトモス島から書き送るようにと主から命じられて届けることになる ※ 黙示録1章11節の、「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」であり、これらは皆、その時に建設された教会である。主の働きは、時満ちてなされるものであると知ることは、励みではないか !!

極めて、充実した働きがなされた。
後、第三次伝道旅行を終えて、エルサレムへ帰る途中、このエペソには寄らず、ミレト( エペソの南50キロほどの所 )にエペソ教会の長老たちを呼んでした別れの説教( 20章17節~35節 )で、その様子が分かる。
その詳細については、後日の学びになるが、特に19節には ※ 「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」とある。それは、素晴らしい成果の背後に必ず付きまとう、宣教に対する反撃の厳しさである。コリント人への手紙 第一 15章32節 「もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう・・・」とある言葉の表現によっても、その状況の激しさが伝えられている。

そうした激しい状況下でも、20節 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」との現象をもたらした要因がどこにあったかを学んで Message を。
ここでは、11節 「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた」ことが契機になって、13節 「ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈禱師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『 パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる 』 と言ってみた。」という予想外の出来事が起こったことに注目したい。
こうした魔よけ祈禱師はこれまでにも出て来た。8章9節~13節 「シモン」、13章6節~8節 「魔術師エルマ」等の存在。
一世紀のユダヤ教の堕落した状態は悲しむべき事実であり、魔術は悪霊を追い出す為に採用されていた手段だったと言われている。彼らは皆一様に、聖霊の働きに便乗して、収益を得ようとする者たちだった。パウロがこうした動きをどう見ていただろうか ? 煩わしいものであることだけは確か。
ところが何という結果が出て来たことか !! 便乗した者たちが、15節~16節 「すると悪霊が答えて、『 自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ 』 と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。」と、何と恥をかかされるということに !?
17節 「このこと」は困ったことにはならず、かえって教会の質を変える一大転機となるのだ !!
18節 詳訳 「今は信者になっていた者たちが多くやって来て、彼らの【以前の偽りに満ちた、邪悪な】行為をすっかり告白して全部さらけ出した。そして、奇妙な魔術を行なっていた多くの者たちが自分の書物を集めて、それを次々と投げて積み上げ、みな人の見ている前で焼いた」とは 《 信仰告白の徹底 》 、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 マタイの福音書 3章8節」の実践である。主への畏敬に見る、主との関係の真面目さ、誠実さにこそ、宣教の鍵がある。


※ 宣教に伴う困難は教会を衰退させるどころか純化し、宣教を推進させるとの事実を、私たちの信仰の挑戦としたい。

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