使徒の働き19章1節~7節
先週は、エペソを発った後のパウロの動きにではなく、エペソに留まった「プリスキラとアクラ」の働きに注目した。
彼ら二人について、「・・・この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。 ローマ人への手紙 16章3節~4節」とパウロが紹介している聖句から学んで後、『 使徒の働き 』 でパウロによる働きが顕著である中、こうした献身的な器方の存在によって、聖霊の働きがスムーズに行われていたのだとの事実を見て Message とした。
エペソに留まったプリスキラとアクラの許に、パウロと入れ替わって、24節a 「アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人が」やって来た時のこと。そのアポロが聖書に通じ、霊に燃えていたものの、「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった・・・。」と洞察した時、「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」二人に学んだ( 24節b~26節 )。
ⅰ 福音経験が確かであったこと。アポロの「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」とは、第一転機の恵みのことで、きよめの恵みを知らないと洞察し得た彼らの霊的経験。
ⅱ 節度をもって、臆することなく、聖霊の導きに従って説明する誠実さ。
ⅲ 実践的協力を惜しまないこと。アポロは謙虚に「神の道」を受け入れたのでしょう。その後、兄弟たちは27節 ※ アカヤ行きを希望する彼を支持して送り出した。
※ 己を明け渡し、聖霊に従って主と人とに仕えた隠れた存在に励まされ、互いも適材適所用いられる者でありたい、と。
今朝は、18章23節から 《 第三次伝道旅行 》 に出たパウロが、18章21節 「神のみこころなら、また・・・帰って来ます」との約束を果たすべく、再度、【アポロと入れ替わる形で】プリスキラとアクラのいるエペソに来た時のこと。パウロがエペソに着くや否や出会った「幾人かの弟子」とのやり取りから 《 聖霊経験の重要性 》 を考えたい。
19章1節には「弟子」とあるが、どのような経緯で信仰を持ったのか ? 彼らはユダヤ人なのか ? 異邦人からの改宗者なのか ? 詳細は分からないが、いずれにせよキリスト者となっていた人々であることだけは確か。
ところがパウロが初めて彼らに出会った時、パウロが、2節a 「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは ※ 2節b 別訳 「聖霊のあることを聞いたことさえありませんでした」と答えた。更に、3節a 「では、どんなバプテスマを受けたのですか」に対しては、先のアポロが、18章25節 「・・・ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」のと同様、3節b 「ヨハネのバプテスマです」だった。
ここから何を学ぶべき ?
① 聖霊を知っての信仰生活か ? そうでないのかは、その人を見れば分かること。
プリスキラとアクラも、アポロの説教を聞いた時、聖霊の欠如を知って、18章26節 「・・・彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」。パウロも、既に「弟子」となっていた人々を見て、聖霊経験の欠如を知って指導した。
列王記 第二 2章には、預言者エリヤが「天に上げられるとき」の記事がある。エリヤが別れを告げても、なお従う後継者エリシャとのやり取りが、9節に、「 『 私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。 』 すると、エリシャは、『 では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように 』 と言った」と。これは、相続財産の請求に当たるが、エリヤの後継者としてどうしても必要な霊的遺産の切願である。10節 「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう・・・」が実現するのだ。15節 「・・・遠くから彼を見て、『 エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている 』 と言い・・・」とある ♪ 見れば分かるものとは、如何にも厳粛ではないか !!
② それは、聖霊によって生活するのか、生来の自我をもって生活するのかで判別されること。
アポロは、【18章24節b~26節a】を見る限り、説教者として良く聖書に精通し、雄弁に語り、大胆さがあったが、聖霊経験に欠けていた。一方のパウロは、コリント人への手紙 第一 2章3節~5節を見ると、人間的なものの全てが排除され、「御霊と御力の現れ」を経験した。
人間的自信というものが悉( ことごと )く砕かれているのか ? 自らの内的貧しさの自覚の如何は ?
パウロは、コリント人への手紙 第一 15章8節~10節 「月足らずで生まれた者・・・価値のない者・・・私ではなく、私にある神の恵み」と断言しているが、その姿勢の如何こそが鍵である !!
③ この聖霊経験の明確さは、5節 「主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」を意味する 《 聖霊のバプテスマに与る 》 ことによる。
ガラテヤ人への手紙 2章20節 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」との告白に日々生きることである。
この霊的経験は、第一の恵みの経験【罪の赦し】に次ぐ経験である。その後、それらの罪を犯させる内的腐敗性に気付かせられ、何とかして頂きたいとの渇きをもって【その罪の性質の清めに与らせる】のが、第二の恵みの経験である。
アポロは、18章26節でプリスキラとアクラからの招きに応じ、「神の道」についての正確な説明を受けて、この経験に与った。
エペソの弟子たちは、パウロの質問【19章2節a、3節a】があった後、4節~5節でパウロから ※ 【マタイの福音書3章11節の「聖霊と火とのバプテスマ」についての説明】を受け、その必要性に気付かされて求め、この経験に与った。罪の赦しによる 《 明確な悔い改めの信仰 》 は、遅かれ早かれ必ずやその人をしてこの経験を求めさせ、与らせる。
※ 十二人ほどの弟子たちは、この経験をもって初めて、真の弟子として、今後のエペソ教会の担い手となったに違いない。
先週は、エペソを発った後のパウロの動きにではなく、エペソに留まった「プリスキラとアクラ」の働きに注目した。
彼ら二人について、「・・・この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。 ローマ人への手紙 16章3節~4節」とパウロが紹介している聖句から学んで後、『 使徒の働き 』 でパウロによる働きが顕著である中、こうした献身的な器方の存在によって、聖霊の働きがスムーズに行われていたのだとの事実を見て Message とした。
エペソに留まったプリスキラとアクラの許に、パウロと入れ替わって、24節a 「アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人が」やって来た時のこと。そのアポロが聖書に通じ、霊に燃えていたものの、「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった・・・。」と洞察した時、「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」二人に学んだ( 24節b~26節 )。
ⅰ 福音経験が確かであったこと。アポロの「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」とは、第一転機の恵みのことで、きよめの恵みを知らないと洞察し得た彼らの霊的経験。
ⅱ 節度をもって、臆することなく、聖霊の導きに従って説明する誠実さ。
ⅲ 実践的協力を惜しまないこと。アポロは謙虚に「神の道」を受け入れたのでしょう。その後、兄弟たちは27節 ※ アカヤ行きを希望する彼を支持して送り出した。
※ 己を明け渡し、聖霊に従って主と人とに仕えた隠れた存在に励まされ、互いも適材適所用いられる者でありたい、と。
今朝は、18章23節から 《 第三次伝道旅行 》 に出たパウロが、18章21節 「神のみこころなら、また・・・帰って来ます」との約束を果たすべく、再度、【アポロと入れ替わる形で】プリスキラとアクラのいるエペソに来た時のこと。パウロがエペソに着くや否や出会った「幾人かの弟子」とのやり取りから 《 聖霊経験の重要性 》 を考えたい。
19章1節には「弟子」とあるが、どのような経緯で信仰を持ったのか ? 彼らはユダヤ人なのか ? 異邦人からの改宗者なのか ? 詳細は分からないが、いずれにせよキリスト者となっていた人々であることだけは確か。
ところがパウロが初めて彼らに出会った時、パウロが、2節a 「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは ※ 2節b 別訳 「聖霊のあることを聞いたことさえありませんでした」と答えた。更に、3節a 「では、どんなバプテスマを受けたのですか」に対しては、先のアポロが、18章25節 「・・・ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」のと同様、3節b 「ヨハネのバプテスマです」だった。
ここから何を学ぶべき ?
① 聖霊を知っての信仰生活か ? そうでないのかは、その人を見れば分かること。
プリスキラとアクラも、アポロの説教を聞いた時、聖霊の欠如を知って、18章26節 「・・・彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」。パウロも、既に「弟子」となっていた人々を見て、聖霊経験の欠如を知って指導した。
列王記 第二 2章には、預言者エリヤが「天に上げられるとき」の記事がある。エリヤが別れを告げても、なお従う後継者エリシャとのやり取りが、9節に、「 『 私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。 』 すると、エリシャは、『 では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように 』 と言った」と。これは、相続財産の請求に当たるが、エリヤの後継者としてどうしても必要な霊的遺産の切願である。10節 「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう・・・」が実現するのだ。15節 「・・・遠くから彼を見て、『 エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている 』 と言い・・・」とある ♪ 見れば分かるものとは、如何にも厳粛ではないか !!
② それは、聖霊によって生活するのか、生来の自我をもって生活するのかで判別されること。
アポロは、【18章24節b~26節a】を見る限り、説教者として良く聖書に精通し、雄弁に語り、大胆さがあったが、聖霊経験に欠けていた。一方のパウロは、コリント人への手紙 第一 2章3節~5節を見ると、人間的なものの全てが排除され、「御霊と御力の現れ」を経験した。
人間的自信というものが悉( ことごと )く砕かれているのか ? 自らの内的貧しさの自覚の如何は ?
パウロは、コリント人への手紙 第一 15章8節~10節 「月足らずで生まれた者・・・価値のない者・・・私ではなく、私にある神の恵み」と断言しているが、その姿勢の如何こそが鍵である !!
③ この聖霊経験の明確さは、5節 「主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」を意味する 《 聖霊のバプテスマに与る 》 ことによる。
ガラテヤ人への手紙 2章20節 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」との告白に日々生きることである。
この霊的経験は、第一の恵みの経験【罪の赦し】に次ぐ経験である。その後、それらの罪を犯させる内的腐敗性に気付かせられ、何とかして頂きたいとの渇きをもって【その罪の性質の清めに与らせる】のが、第二の恵みの経験である。
アポロは、18章26節でプリスキラとアクラからの招きに応じ、「神の道」についての正確な説明を受けて、この経験に与った。
エペソの弟子たちは、パウロの質問【19章2節a、3節a】があった後、4節~5節でパウロから ※ 【マタイの福音書3章11節の「聖霊と火とのバプテスマ」についての説明】を受け、その必要性に気付かされて求め、この経験に与った。罪の赦しによる 《 明確な悔い改めの信仰 》 は、遅かれ早かれ必ずやその人をしてこの経験を求めさせ、与らせる。
※ 十二人ほどの弟子たちは、この経験をもって初めて、真の弟子として、今後のエペソ教会の担い手となったに違いない。
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