聖日礼拝 『使徒の働き』 より 38


使徒の働き18章1節~22節

先週は、芸術都市を誇るアテネに入ったパウロが、17章16節 「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ」て、語らざるを得なくされた説教から 《 彼らへの愛を 》 見た。

ⅰ 説教の動機に、愛を。
17節 「そこで」とは、前節 詳訳 「彼の心は深く悲しんだ、怒りを掻き立てられた」を受けてのことである。
ローマ人への手紙 1章21節~23節で 《 偶像礼拝の経緯とそこに結果する罪について 》 語られているが、ここアテネの人々においても、「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣・・・と代えてしまいました。」と、その典型を見て 《 魂への激しい重荷 》 に心が締め付けられたからである。

ⅱ 婉曲的な説教とはいえ、福音を恥とせず【気後れせず、反応を恐れず】に悔い改めを迫った、ここに愛を。
先ず、説教の切り口が、22節~23節 「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。・・・あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」と、この始まりには刺激的な響きはなく、彼らの心を柔らかく包み込むような近づき方である。
しかし、24節~26節では、神とは非人格的な抽象的な存在ではなく、主【絶対的な主権者】であると権威をもって宣言し、遂には【ここに持って行きたかった】 ※ 30節 「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」と悔い改めを迫り、結実を見る。

※ 私たちも聖霊の愛を頂いて、魂への重荷を !! と。


今朝は、アテネを去ったパウロが、コリント経由でエペソへと、遂に第二次伝道旅行を終えて、派遣教会アンテオケに戻るまでの動きの中で、特に 《 コリントでの働き 》 に注目致します。
このコリントの町は、ギリシャの政治・商業両方の首都として繁栄し、ローマから派遣された総督が駐在していた。従って、18章1節 「アテネを去って、コリントへ行った。」とは、パウロにとって、最も知性的な都市から最も繁栄した商業的な都市に行くことを意味していたと言われている。

コリントの町の特色について : 「沢山の奴隷、実際の奴隷市場、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人、アジヤ人、フェニキヤ人などの雑多な異民族の人々が居た。更に文明世界のあらゆる地からやって来た船員や商人たちの集まっているところでもあった。高尚な伝統はなく、流行の哲学への知ったかぶりの一般的な知識、美学的な鑑賞心、偽りの古物品、コリント地峡のゲームなどもあったが、特にアクロコリントのアクロディテの神殿において、・・・不潔な礼拝に身を渡してしまっているのが特色であった。・・・コリントは、ローマ帝国の虚栄の町である。・・・異邦人の世界では、この市は不正直さ、遊蕩および飲酒で有名、いや悪名が高かった。・・・この市の悪名は、ことわざのように用いられた。即ち、一人の人を 『 コリント人 』 のように振る舞うと非難することは、彼が低俗な、恥知らずの不道徳な生活を送っていると非難することを意味した。コリント人の名前は、ギリシャのすべての刊行物の中に、文学、美術、哲学のどこにも良い名としては、用いられていないと言われている。 ⇒ ウェスレアン聖書注解 」

この様子については、パウロが11節 「一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた」結果、誕生したコリントの教会に宛てて、後日書き送らなければならなくされた手紙で推し測ることが出来る。
それが 『 コリント人への手紙 第一 』 であるが、特に、5章で断腸の思いをもって辛辣に非難しなければならなかった時のパウロの心痛によってである !! 又、その手紙を受け取ったコリント教会の人々の謙虚に出た姿勢を聞かされて書いた、『 コリント人への手紙 第二 』 2章3節~11節、7章8節~12節を読む時にも、その心痛の深さを知ることが出来る。

さて、このような町コリントでの働きはどうだったのか ?
パウロがアテネ入りした時には、17章16節 「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」とあったが、様子は打って変わって、不道徳で満ち溢れているコリント入り。
特に ※ 18章9節~10節 「ある夜、主は幻によってパウロに、『 恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから 』 と言われた」ことから、パウロの様子が分かる。
パウロは恐怖に怯え、一刻も早くコリントでの働きに決着を付け、この場から立ち去りたいとさえ考えたようである。この時の様子を、コリント人への手紙 第一  2章1節~5節で吐露し、「・・・あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました・・・」と回顧している。

① パウロにとって、その「恐れ」とは ?

主が「語り続けなさい。黙ってはいけない」と仰っておられるように、語ることを恐れたのだ。8節では、「会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」との結果が与えられていることから、むしろ、結果があった後での恐れなのだ。迫害を物ともせずにここまで宣教を続けて来たパウロにしては、稀な恐怖心ではないだろうか ? にも拘らずの恐怖心だとすれば、コリントの町が醸し出している雰囲気に独特の脅威を感じていたことになる。

10節で、主は二つのことに触れておられる。
a. 「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」と。と言うことは、主に従う者を起こしている張本人として、パウロ自らが被ることになる迫害への、個人的な恐れである。
b. 「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と。と言うことは、腐敗した中から引き抜かれて 《 主に信仰告白した忠実な 》 人々を襲うであろう脅威、彼らを待ち受けている厳しい信仰生活を予測しての恐れである。

② パウロは、10節a 「わたしがあなたとともにいるのだ・・・」との直接的な語り掛けに力を得て、11節 「一年半ここに腰を据えて、・・・教え続けた」。


※ 強く在ることが出来るのは、主によってであって、人間的な拠り所などにはないことを感謝したい。

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