聖日礼拝 『使徒の働き』 より 34


使徒の働き16章11節~40節

先週は、パウロが第二次伝道旅行に送り出される記事から、16章6節 「聖霊によって禁じられ」、7節 「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」との聖句に、聖霊がどのように主導権をもってパウロを導かれたのかに注目した。

ⅰ 志を与え、知恵を以って対応される聖霊。
聖霊は、15章36節でパウロに魂に対する重荷を与え、バルナバを誘わせた。その時、37節~38節によると、二人は意見の相違から「激しい反目となっ」て別行動を取ることになるが、それをすら、効果ある宣教の働きに用いられた !!
それぞれの意見に動機の純潔が確かめられさえすれば、表面上の意見の相違は問題とはならない。結果としてマルコは立ち直り、第二次伝道旅行では驚くべき成果が与えられることに。聖霊は違う二人を知恵深く起用されたのだ。

ⅱ 弟子育成の重荷を与えておられる聖霊。
3節でテモテを見出し、宣教の厳しい現場に居合わせることをもっての訓練が相応しいとの洞察で同伴させた。

ⅲ 宣教地を指示される聖霊。
6節 「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」、7節 「ビテニヤのほうへ行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」とは !! ガラテヤ人への手紙 4章13節~14節には、ガラテヤ伝道の記事があるが、健康上の問題があったからなのかも知れない。
いずれにせよ、何らかの示唆が与えられたのであれば、謙虚に聞いて従うことの重要性がここにはある。

※ 聖霊との関係を正すべく、聖餐式に臨んだ。


今朝は、聖霊の導きに注意深く従いながら旅を続けたパウロの一行が、9節~10節 「・・・私たちはただちにマケド二ヤへ出かけることにした。」と、遂に海を越えてヨーロッパに渡り、先ずは12節 「マケド二ヤのこの地方第一の町」、ピリピを訪れて行うことになった働きに注目致します。
パウロが見た幻、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」の意味はここにあったのだと、納得させられる結果を見ることに !! 福音が届けられさえすれば、直ちに救われる人々が備えられていたのだから。
14節~15節【ルデヤとその家族の救い】、16節~17節【女奴隷の救い】、25節~34節【獄舎の看守とその家族の救い】、こうして、パウロの誇りとなるピリピ教会が誕生したのである。
ほぼ十年後に、パウロがローマの獄中から書き送った 『 ピリピ人への手紙 』 には、1章3節~8節 「・・・あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています・・・」とある。ピリピ教会は、「最初の日から今日まで」献身的にパウロに仕えることを以って主に仕えた模範的な教会として、その名を残している。
「最初の日」とは、16章15節、40節に見るルデヤの奉仕。33節~34節に見る看守の奉仕。更にその後、エルサレム教会の窮状が伝えられた時には、コリント人への手紙 第二 8章1節~5節 「・・・聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願った」教会。パウロによって、「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」と、コリント教会に紹介された教会である。

こうした教会の誕生の為に、誰が何をしたのか ? と考える時、人間的な要素は何処にも認められず、やはり徹頭徹尾、聖霊によるとだけ言うべきで、何と言っても先ず、この宣教地に送り込んだのが聖霊であることから確かなこと。そこで 《 救われた人々に働かれた聖霊 》 に注目したい。

① 14節 「ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」とあるここに。

エペソ人への手紙 1章17節~19節 「・・・あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・」との祈りがあるが、聖霊だけがこのことをなさるのだ。何故なら、コリント人への手紙 第二 4章4節 「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」とあるように、人は皆サタンに束縛されて、盲目状態にある。そのサタンの力に対抗し、勝ちを取られる ※ 「聖霊によるのでなければ、だれも、『 イエスは主です 』 と言うことはでき」ないから( コリント人への手紙 第一 12章3節c )。
換言するなら、隣人の救いを願うお互いは、人間的焦り、煩いを捨てて、聖霊を期待する責任があるということ !!

② 16節~18節 「パウロと私たちのあとについて来て、『 この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです 』 と叫び続けた」占いの霊につかれた若い女奴隷への対応の為、パウロに霊的洞察力を与えて退かせた。

先のルデヤの救いは、ピリピ宣教の初めの実であるが、福音の浸透は簡単なことではなかった。この女奴隷の言葉は実に内容的に問題はない。正にその通りなのだ。しかしここで、武装が必要。心霊術的な世界を用いて、真理を骨抜きにしようと働く悪魔の手立てがあるから。
あたかも聖書的メッセージを送りながら、実はそうではないことがある。聖霊は悪魔的後ろ盾に気付かせようとパウロに働き掛け、直ちに ※ 18節 「イエス・キリストの御名によって命じる。」と言わせた。この女の言葉を歓迎すべき ? 警戒すべき ? このいずれかの洞察は、今後の宣教にとって重要な局面となった。

③ 25節 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」とあるここに。

女奴隷による儲けが絶望的になったと知った主人たちは、二人を牢屋に閉じ込めた。しかし何という展開に !!
こうした事態にも主をお認めして喜び、主を信頼した二人を聖霊が用いて、看守を救われたのだから。何という、パウロの大胆さ !! どういう訳か、35節 「釈放せよ」との命令が出た時のパウロの告発( 37節 )。普段持ち出すことのない 《 ローマの市民権 》 を、宣教の為に公然と用いて互角に出る恵みによる強さ。相手が長官であろうと、彼らの非を明らかにするところに彼の責任感を見る。


※ 聖霊は、大胆に従う者を用いて働きを進められるお方であるとは、何という激励 !! そこに生きる者でありたい。

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