ペンテコステ記念礼拝 『使徒の働き』 より 33


使徒の働き15章36節~16章10節

先週は、異邦人教会を悩ます問題【パリサイ派の者で信者となった人々からの ※ 1節 「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ・・・救われない」という教え】の解決が必要になり、教会における初めて行われた会議に注目した。
教会にとって死活問題であった議題が、見事に乗り越えられた。その鍵を ※ 28節 「聖霊と私たちは・・・決めました。」と告白した教会の 《 聖霊を指導者と仰いだ姿勢 》 に学んだ。
2節 「激しい対立と論争が生じ」、7節 「激しい論争があって」と、かなりの衝突があったが、最終的には、12節 「全会衆は沈黙してしまった。・・・話すのに、耳を傾け」、22節 「使徒たちと長老たち、また、全教会もともに・・・決議し」、25節 「衆議一決」にと。ここで、二つの事を !!

ⅰ 主のみからだである教会は、色々な背景から召し出された人々の集まりであるが、それが支障とはならなかったこと。

ⅱ 教会の一人一人が、真理の前に謙虚にされていること。

※ 仮にそれぞれの相違が、「激しい論争」を引き起こすようなことがあっても、そのこと自体が問題になることはない。唯、重要なことは、「聖霊と私たち」という信仰的理解を共にし、「私たち」の前に「聖霊」が位置していること。ガラテヤ人への手紙 5章16節~18節、25節 「御霊に導かれて、進もうではありませんか。」に従うこと。
即ち、聖霊が願うところを良しとし、聖霊が願うところに従うという位置にそれぞれの身を置くということだけ。教会が只管( ひたすら )、主の御心だけがなれば良いとしているならば、私たちも又、「聖霊と私たちは」と告白出来ることを感謝したい、と。


今朝はペンテコステを記念する礼拝ですが、私たちは、昨年9月より始まっている 『 使徒の働き 』 の連講を通して、弟子たちに注がれた聖霊によって教会が誕生し、豊かな実が結ばれているのを見て来ている。
今朝は、エルサレム会議での決議案がアンテオケ教会に伝えられて後、教会に落ち着きが取り戻され、パウロが第二次伝道旅行に送り出される記事に入ります。
ここで私たちは、16章6節 「聖霊によって禁じられたので」、7節 「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」との聖句に、聖霊が如何にご自身の主導権をもってパウロに働いておられるかを見て、今日の互いの在り方に示唆を頂きたい。

① 志を与え、知恵を以って対応される聖霊。

パウロは、15章36節 「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」と、バルナバを誘った。
聖霊は魂に対する重荷を与え、パウロを駆り立てた。
ところが37節、38節によると、パウロとバルナバは意見の相違から、39節 「激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。」とある。
こうした対立を、私たちはどう理解するでしょうか ?
パウロは ※ ピリピ人への手紙 2章1節~3節で、「・・・があるなら、・・・あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください・・・」と指導している器である。

バルナバにしてもこの勧めに異論はない筈。
にも拘らず生じた対立であるとすれば、「一致、同じ愛の心、心を合わせ、志を一つに」という時、必ずしも表面上の現れだけで判断することの出来ない 《 もっと深い部分での一致 》 が意味されていると学ぶべきなのでは ?
二人の間に生じた対立は、この信仰的理解と矛盾していない。更に言うならば、この対立はあってはならなかったものではない。むしろ、「御霊の交わり」に鍵があり、先ずはお互いの、聖霊との関係の正しさ、聖霊に明け渡された姿勢の確認が重要なのであって、一致を短絡的、近視眼的に見ることは警戒したい。
38節 「パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかった」マルコを同行させるか、させないかを巡っての意見の相違。パウロの「連れて行かない」は 《 宣教の困難さを重視した 》 意見で、聖霊にもとる肉的問題はない。バルナバの「連れて行くつもり」は 《 マルコに再度チャンスを、とする 》 意見で、ここにも肉的問題はない。
それぞれが聖霊との交わりから確信して出した意見による、「激しい反目」であったと考えられる。ピリピ人への手紙 2章3節 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」に抵触する肉的性質によったのでもない。二人は別々に行動することになったが、その結果、マルコは立ち直り( コロサイ人への手紙 4章10節 )、第二次伝旅行では驚くべき成果が与えられている。聖霊は違う二人を知恵深く起用されたのだ。

② 弟子を育てる重荷を与えておられる聖霊。

16章3節 「パウロは、このテモテを連れて行きたかった」とある。テモテについては、14章19節~20節のルステラ事件での目撃者の一人だったと学んでいるように、テモテはもう既に、厳しい宣教の現場に遭遇しながらも弟子として留まっていたからである。マルコを同伴出来ないとしたパウロの一貫した考えがここにある。
テモテには、宣教の厳しい現場での訓練が相応しいとの洞察である。テモテへの手紙 第二 3章10節~11節 「しかし、あなたは・・・よくついて来てくれました。」とは、テモテを選んだ理由でもある。主が十二弟子を選ばれるのに、ルカの福音書 22章28節 「・・・試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」と仰ったのと同様の方法である。

③ 宣教地を指示される聖霊。

6節 「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」、7節 「ビテニヤのほうへ行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」とは !! ガラテヤ人への手紙 4章13節~14節には、ガラテヤ伝道の記事があるが、健康上の問題があったからなのかも知れない。
いずれにせよ、何らかの示唆となる導きが与えられたのであれば、謙虚に聞いて従うことの重要性がここにはある。


※ 一にも二にも、聖霊との関係を正すべく、主の十字架に与るべく、聖餐式に臨みたい。

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