聖日礼拝 『使徒の働き』 より 32


使徒の働き15章1節~35節

先週学んだ14章は、第一次伝道旅行の後半の記事でしたが、又してもの迫害に遭遇しつつもパウロの手掛けた働きの中心が、21節 「多くの人を弟子としてから」と、《 主の命じられた弟子づくりにあった 》 という点に注目した。
復活の主が昇天を目前にして命じられたことが、宣教命令 ※ マタイの福音書 28章19節 「あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。」 & その為に、使徒の働き 1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」にあったことを確認した。実にパウロも又、主の命じられたこの原則を学び、心得て実行しているのを見て励まされた !!
20節 「弟子たちがパウロを取り囲んでいると」、21節 「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから」、22節 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め」、28節 「そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。」とある弟子たちの中に、生涯パウロの愛弟子として仕えたテモテがいたことを学んだ。
私たちの今は、救われはしたものの、主の弟子だろうか ?
今がどうであれ、主の ※ マタイの福音書 16章24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」との招きに従う者でありたい。弟子の条件は、自己の権利を捨てることと、ことごとく自らの肉の性質を憎んで十字架につけ続けて従うことに。

※ テモテにしても、後のマルコ=ヨハネにしても、迫害に甘んじる使徒たちを目撃した上で従った人々であることを覚えて、互いの霊的挑戦としたい( テモテへの手紙 第二 3章10節~11節 )と。


今朝は、エルサレムで初めて開かれることになった 《 教会会議 》 に注目致します。このエルサレム会議が開かれた切っ掛けは 《 第一次伝道旅行を終えて、アンテオケに戻っていたパウロとバルナバのもとに、1節 「ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『 モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない 』 と教えていた」という 》 聞き捨てならない問題が舞い込んで来たことに始まった。
早速、パウロとバルナバがこの問題解決の為に、2節 「使徒たちや長老たち」と話し合う必要から、エルサレムに上ることになった。4節 「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。」という運びに。
5節 「しかし」と、「パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、『 異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである 』 と言った」ことから、6節 「そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まっ」て、本格的な論議が交わされることになる。
初代教会が直面したこの問題解決の行方によっては、教会の死活問題にもなり兼ねない。何故なら、主の( アブラハムと交わした )契約 ※ 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。創世記 12章3節c」の実現に向けてなされるべき宣教の働きに支障をきたすからである。聖霊の働きによって誕生した異邦人教会とユダヤ人教会との関係を分裂状態のままにして置くならば、福音は骨抜きにされ、教会の働きは無力化してしまうからである。

しかしこの会議によって、教会が真の一致に与っていることが証され、教会として、本来在るべき状態に立っていることを互いに再確認し合う機会となったことは幸いだった !!
今朝は、会議をこのような幸いに導いた鍵が、28節 「聖霊と私たちは・・・決めました。」と告白した教会の 《 聖霊を指導者と仰いだ姿勢 》 にあったと学んで Message としたい。
どこにその姿勢を ?
2節と7節 「パウロとバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので」、「激しい論争があって後」は、かなりの衝突があったことを意味しているが、最終的には、12節 「・・・全会衆は沈黙してしまった。・・・話すのに、耳を傾け」、22節 「そこで使徒たちと長老たち、また、全教会もともに・・・決議した」ところに見る。

① 主のみからだである教会は、色々な背景から召し出された人々の集まりであるが、それが支障とはならなかったこと。

特にこの会議で物議を醸( かも )したのは、5節 「パリサイ派の者で信者になった人々」である。議長ヤコブによって、24節 「私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。」と、指摘を受けなければならなかった人々である。
それでもその彼らとて、福音宣教を阻止するユダヤ人ではなく、自らの罪を認めて主に立ち返った人々である。
それまでユダヤ教徒としてしっかり培われて来た物の考え方、見方、染み付いた生活習慣からの解放の為に、折あるごとに内的罪の腐敗性を認めさせられては、清めを受け続けるだけのこと。

② 教会の一人一人が、真理の前に謙虚にされていること。

7節~11節のペテロの弁明に、12節a 「沈黙してしまった」とある従順。バルナバとパウロの弁明に、12節c 「耳を傾けた」とある従順。13節~21節 「ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。『 兄弟たち。私の言うことを聞いてください。・・・預言者たちのことばもこれと一致しており・・・ 』 」と、聖書の預言の成就であるとの弁明に対する従順。
その結果、22節 「全教会もともに・・・決議した。」/25節 「・・・あなたがたのところへ送ることに衆議一決【満場一致】しました。」という謙虚な姿勢が見られることは、何と感動的な会議となったことか !!


※ 仮にそれぞれの相違が、「激しい論争」を引き起こすようなことがあっても、そのこと自体が問題になることはない。唯、重要な事は、「聖霊と私たち」という信仰的理解を共にし、「私たち」の前に「聖霊」が位置していること。即ち、聖霊が願うところを良しとし、聖霊が願うところに従うという位置にそれぞれの身を置くということだけ。教会が只管( ひたすら )、主の御心だけがなれば良いとしているならば、私たちも又、「聖霊と私たちは」と告白出来ることを感謝したい。

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