使徒の働き14章全
先週は、ピシデヤのアンテオケで口汚なくののしられて後、追放されることになったパウロが最後に伝えた説教で 《 聞く者たちの永遠的明暗を明確にした 》 という点に注目した !!
聖霊による説教は、会衆の明暗を分ける !!
ⅰ 42節~44節で、信じた人々に 《 明 》 を。
43節c ⇒ 常に 《 神との正しい関係に自らを保つように 》 との指導に与った/44節 ⇒ 説教の感動を、隣人に伝えざるを得なくされた/48節 ⇒ 永遠のいのちに与った。
ⅱ 45節で迫害した人々に 《 暗 》 を。
46節 「・・・あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」と。パウロは、同節 「神のことばは、まずあなたがたに・・・」と伝えて、彼らの誤った選民意識を正した。この「まず」とは、アブラハムに語られた 《 創世記 12章2節~3節 》 のこと。神の全人類を救おうとする救いの計画が成就したにも拘らず、彼らはこれを理解せず、異邦人が祝福されることを以ての外とする特権意識を抱いていたから。
50節 「ところが、ユダヤ人たちは・・・扇動して・・・迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。」とある。
説教者が追放されても、49節 「主のみことばは、この地方全体に広まった。」と、働きは阻止されなかったとは !!
※ この結果、46節e 「異邦人のほうへ向かい」、51節 「足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」二人。52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」とは、何という聖霊の圧倒的な前進 !! 唯、お互いも、聖霊に働いて頂きたいと。
今朝は、21節 「多くの人を弟子として」に注目したい。この14章は、使徒たちが 《 ピシデヤのアンテオケでの働き【42節~44節 ※ 「ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」】を妬んだ 》 ユダヤ人たちから追い出されて後、イコニオム、ルステラ、デルべへと旅を続け、このデルべから折り返して、遂に、26節 「そこから船でアンテオケに帰った」第一次伝道旅行の後半の模様である。
行くところ行くところで彼らを待ち受けていたものは迫害であるが、使徒たちの働きは妨げられるどころかいよいよ力を増し、8節~18節のルステラでは、癒しの奇蹟がなされたことから奇想天外な出来事が起こった。
11節~13節 「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『 神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ 』 と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした」現象である。
この騒ぎを治める為、使徒たちのしたことは、15節~17節 「私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」と、即座に自らの立場を明確にし、この出来事を機に福音を語り、18節 「ようやくのことで・・・やめさせた」ことは良かった。
しかしその結果はやはり、19節 「・・・ユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」という破廉恥な仕打ちである !!
私たちは今朝、使徒たちがこのような目まぐるしい働きに携わる中で手掛けた働きの中心が、《 主の命じられた弟子づくりにあった 》 という点に賢く注視したい。
私たちは、復活の主が昇天を目前にして命じられたことが、宣教命令 ※ マタイの福音書 28章19節 「あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。」 & その為に、使徒の働き 1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」であったことを学んで来た。R・E・コールマンがその著書 『 主の弟子として生きる 』 で、 “ 主は、ご自分が弟子たちになさったことを、弟子たちにしてもらいたいと願っておられただけなのだ。それだからこそ弟子たちがそれを理解することが出来た ” と言っているが、正にパウロも又、主の命じられたこの原則を学び心得て実行しているのを見て励まされる !!
この14章で目に留まる言葉が、この「弟子」である。
20節 「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると・・・」、21節 「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから・・・」、22節 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め」、28節 「そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。」とある。O・チェンバーズ曰く、 “ 働き人の仕事は、魂を救うことにあるのではなくて、救われた人を弟子とするのである ” と、ここに通じる原則である。
注目して頂きたい。16章1節~2節には「・・・ルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。」とあります。ご存じのように、このテモテはパウロの愛弟子であり、パウロが最も信頼して教会教会に派遣しては代行を務めさせている( ピリピ人への手紙 2章19節~23節、コリント人への手紙 第一 4章16節~17節 )。
このテモテは、使徒の働き 14章19節~20節のルステラでの迫害に居合わせた「パウロを取り囲んでいる」弟子たちの一人だったと考えられる !! 伝道旅行を開始して間もなく、一行から離れたヨハネも、晩年の獄中のパウロから、テモテと一緒に来るようにと言われた弟子として育てられたのも見ている。
私たちの今は、救われはしたものの、主の弟子だろうか ? 未だ、自らの何事かに囚われているに過ぎない者なのか ?
今現在がどうであれ、主は、マタイの福音書 16章24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と、弟子となるよう招いておられる。弟子となることは招きであって、強制をもってではない。自主的でなければ意味がないからである。
ここで主は 《 弟子の条件 》 について語っておられる。
自己の権利を捨てること( 自らの意思を主のご意思に従わせること )、ことごとく自らの内に巣食っている肉の性質を憎んで十字架につけ続けて従うこと。
※ テモテにしても、後のヨハネにしても、迫害に甘んじる使徒たちを目撃した上で従った人々であることを覚えて、互いの霊的挑戦としたい。テモテへの手紙 第二 3章10節~11節。
先週は、ピシデヤのアンテオケで口汚なくののしられて後、追放されることになったパウロが最後に伝えた説教で 《 聞く者たちの永遠的明暗を明確にした 》 という点に注目した !!
聖霊による説教は、会衆の明暗を分ける !!
ⅰ 42節~44節で、信じた人々に 《 明 》 を。
43節c ⇒ 常に 《 神との正しい関係に自らを保つように 》 との指導に与った/44節 ⇒ 説教の感動を、隣人に伝えざるを得なくされた/48節 ⇒ 永遠のいのちに与った。
ⅱ 45節で迫害した人々に 《 暗 》 を。
46節 「・・・あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」と。パウロは、同節 「神のことばは、まずあなたがたに・・・」と伝えて、彼らの誤った選民意識を正した。この「まず」とは、アブラハムに語られた 《 創世記 12章2節~3節 》 のこと。神の全人類を救おうとする救いの計画が成就したにも拘らず、彼らはこれを理解せず、異邦人が祝福されることを以ての外とする特権意識を抱いていたから。
50節 「ところが、ユダヤ人たちは・・・扇動して・・・迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。」とある。
説教者が追放されても、49節 「主のみことばは、この地方全体に広まった。」と、働きは阻止されなかったとは !!
※ この結果、46節e 「異邦人のほうへ向かい」、51節 「足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」二人。52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」とは、何という聖霊の圧倒的な前進 !! 唯、お互いも、聖霊に働いて頂きたいと。
今朝は、21節 「多くの人を弟子として」に注目したい。この14章は、使徒たちが 《 ピシデヤのアンテオケでの働き【42節~44節 ※ 「ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」】を妬んだ 》 ユダヤ人たちから追い出されて後、イコニオム、ルステラ、デルべへと旅を続け、このデルべから折り返して、遂に、26節 「そこから船でアンテオケに帰った」第一次伝道旅行の後半の模様である。
行くところ行くところで彼らを待ち受けていたものは迫害であるが、使徒たちの働きは妨げられるどころかいよいよ力を増し、8節~18節のルステラでは、癒しの奇蹟がなされたことから奇想天外な出来事が起こった。
11節~13節 「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『 神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ 』 と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした」現象である。
この騒ぎを治める為、使徒たちのしたことは、15節~17節 「私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」と、即座に自らの立場を明確にし、この出来事を機に福音を語り、18節 「ようやくのことで・・・やめさせた」ことは良かった。
しかしその結果はやはり、19節 「・・・ユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」という破廉恥な仕打ちである !!
私たちは今朝、使徒たちがこのような目まぐるしい働きに携わる中で手掛けた働きの中心が、《 主の命じられた弟子づくりにあった 》 という点に賢く注視したい。
私たちは、復活の主が昇天を目前にして命じられたことが、宣教命令 ※ マタイの福音書 28章19節 「あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。」 & その為に、使徒の働き 1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」であったことを学んで来た。R・E・コールマンがその著書 『 主の弟子として生きる 』 で、 “ 主は、ご自分が弟子たちになさったことを、弟子たちにしてもらいたいと願っておられただけなのだ。それだからこそ弟子たちがそれを理解することが出来た ” と言っているが、正にパウロも又、主の命じられたこの原則を学び心得て実行しているのを見て励まされる !!
この14章で目に留まる言葉が、この「弟子」である。
20節 「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると・・・」、21節 「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから・・・」、22節 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め」、28節 「そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。」とある。O・チェンバーズ曰く、 “ 働き人の仕事は、魂を救うことにあるのではなくて、救われた人を弟子とするのである ” と、ここに通じる原則である。
注目して頂きたい。16章1節~2節には「・・・ルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。」とあります。ご存じのように、このテモテはパウロの愛弟子であり、パウロが最も信頼して教会教会に派遣しては代行を務めさせている( ピリピ人への手紙 2章19節~23節、コリント人への手紙 第一 4章16節~17節 )。
このテモテは、使徒の働き 14章19節~20節のルステラでの迫害に居合わせた「パウロを取り囲んでいる」弟子たちの一人だったと考えられる !! 伝道旅行を開始して間もなく、一行から離れたヨハネも、晩年の獄中のパウロから、テモテと一緒に来るようにと言われた弟子として育てられたのも見ている。
私たちの今は、救われはしたものの、主の弟子だろうか ? 未だ、自らの何事かに囚われているに過ぎない者なのか ?
今現在がどうであれ、主は、マタイの福音書 16章24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と、弟子となるよう招いておられる。弟子となることは招きであって、強制をもってではない。自主的でなければ意味がないからである。
ここで主は 《 弟子の条件 》 について語っておられる。
自己の権利を捨てること( 自らの意思を主のご意思に従わせること )、ことごとく自らの内に巣食っている肉の性質を憎んで十字架につけ続けて従うこと。
※ テモテにしても、後のヨハネにしても、迫害に甘んじる使徒たちを目撃した上で従った人々であることを覚えて、互いの霊的挑戦としたい。テモテへの手紙 第二 3章10節~11節。
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