使徒の働き13章42節~52節
先週は、13節~14節 「ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。しかし彼らは・・・」とある出来事に注目した。
ヨハネの一行からの離脱については、後パウロから「私の務めのために役に立つ」と言われる器に変えられていることから、この時点では宣教の困難さに耐えられなかっただけのことでは ? こうした事が起こった最中、「しかし彼らは」と、前進した 《 パウロとバルナバの信仰の姿勢 》 を学んだ。
ⅰ 人間的気負いが見られないこと。
渇いた魂を目の前にした時、勇み立ち兼ねないところ、要請が来るまで会衆席にいる姿に、聖霊に委ねた明け渡しの信仰を見た。これこそ、2節 「聖霊が、『 ・・・わたしのために聖別して 』 」との伝道の動機が聖霊にあるとの証である。
ⅱ 伝えるべきメッセージが明確であること。
説教の中心は、言うまでもなく 《 救い主イエスの誕生と十字架、そして復活。その結果について 》 である。
ⅲ 決して、福音を語るのに反応の如何に動じないこと。
パウロはメッセージの締め括りに至った時、大胆に、40節~41節 「ですから・・・気をつけなさい。」と迫り、会衆に対して責任ある伝え方をしている。そこには見事な手応えが。
同時にこのような結実には、決まって迫害が押し寄せる。彼らの動機は、45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」という妬みである。
※ 聖霊に満たされていることの何と自由で、力強いことか !! 主の為に聖霊によって遣わされているとの自覚を明確にと。
今朝は、ピシデヤのアンテオケで口汚なくののしられて後、追い出される羽目になってイコニオムへ向かわせた 《 パウロの説教の結果 》 に注目したい。
パウロの説教は、聞く者たちの明暗を明確にしたということである。ここに出て来る両極端の状態に注意したい !!
パウロの説教については、先週学びました。
先ず選民イスラエルの出エジプトの出来事から語り始め、直ちに神の救いのご計画を明らかにするのであるが、その要約は次の通りである。23節 「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主をお送りになりました」が、実に悲劇的なことに、27節 「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず・・・イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました」。しかしこの 《 イエス殺害 》 という、人間の愚かな恐るべき失敗にも神の奇しい摂理が働き、30節 「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」と。その結果、39節 「モーセの律法によっては解放【義と】されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放される【神の御前での正しい身分を与えられる】のです。」と福音を大胆に語った。最後に ※ 40節 「・・・あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。」と、《 旧約の預言者たちが、頑なな国民に向かってバビロン帝国による南ユダの襲撃を警告した言葉 》 を引き合いに出して、41節 「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。・・・」と、魂に責任ある説教者として説教を締め括った。
聖霊による説教は、会衆の明暗を分ける !!
① 42節~44節 「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来た・・・。次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」という 《 明 》 。
この人々は・・・
a. 43節c 「いつまでも神の恵みにとどまっているように」と伝えられた。
即ち、39節 脚注 ※ 「義と認められる」信仰にとどまること。常に神との正しい関係に自らを置くようにということである。
b. 44節 「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」とあるが、会堂で初めて聞いて感動した説教を、隣人に伝えざるを得なくされた。
c. 48節 「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった」のであるが、この「定められていた」という語は、神が人間の意志とは無関係に「定められた」ことを意味しない。神は、信じるすべての者を永遠の命に定められる一方、信じない者を永遠の死に定められるが、神がご自身の主権を行使して、あらかじめ「信じる者」と「信じない者」とに定めておられるのではない。 《 信じる、信じない 》 は、その人の個人の決断によるものであって、命を選ぶのか死を選ぶのかは、その人の責任である。この人たちは、自主的に自らの意志によって「永遠のいのち」に与る救いを選んだのだ。
② 45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」という 《 暗 》 。
この人々は・・・
a. 46節 「・・・しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」とある。
この「決めた」とは、何という厳粛な選択 !! 彼らのこの選択は、異邦人に対する妬みによるもの。
パウロは、同節 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。」と伝えて、彼らの誤った選民意識を正そうとした。この「まず」とは、アブラハムに語られた 《 創世記 12章2節~3節 》 のことで、あなたがたを選んで祝福し、異邦人の祝福の基とされた、の意。ところが、神の全人類を救おうとする救いの計画が成就したにも拘らず、彼らはこれを理解せず、異邦人が祝福されることを以ての外とする特権意識を抱いた。これは、甚だしく傲慢で極めて有害だと。本来、喜ぶべきこと !!
b. 50節 「ところが、ユダヤ人たちは・・・扇動して・・・迫害させ、ふたりをその地方から追い出し」てしまった。
説教者は追放されても、49節 「主のみことばは、この地方全体に広まった。」と、働きは阻止されなかったとは !!
※ この結果、46節e 「異邦人のほうへ向かい」、51節 「足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」二人。52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」とは、何という聖霊の圧倒的な前進 !! 唯、お互いも又、聖霊に働いて頂きたい。
先週は、13節~14節 「ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。しかし彼らは・・・」とある出来事に注目した。
ヨハネの一行からの離脱については、後パウロから「私の務めのために役に立つ」と言われる器に変えられていることから、この時点では宣教の困難さに耐えられなかっただけのことでは ? こうした事が起こった最中、「しかし彼らは」と、前進した 《 パウロとバルナバの信仰の姿勢 》 を学んだ。
ⅰ 人間的気負いが見られないこと。
渇いた魂を目の前にした時、勇み立ち兼ねないところ、要請が来るまで会衆席にいる姿に、聖霊に委ねた明け渡しの信仰を見た。これこそ、2節 「聖霊が、『 ・・・わたしのために聖別して 』 」との伝道の動機が聖霊にあるとの証である。
ⅱ 伝えるべきメッセージが明確であること。
説教の中心は、言うまでもなく 《 救い主イエスの誕生と十字架、そして復活。その結果について 》 である。
ⅲ 決して、福音を語るのに反応の如何に動じないこと。
パウロはメッセージの締め括りに至った時、大胆に、40節~41節 「ですから・・・気をつけなさい。」と迫り、会衆に対して責任ある伝え方をしている。そこには見事な手応えが。
同時にこのような結実には、決まって迫害が押し寄せる。彼らの動機は、45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」という妬みである。
※ 聖霊に満たされていることの何と自由で、力強いことか !! 主の為に聖霊によって遣わされているとの自覚を明確にと。
今朝は、ピシデヤのアンテオケで口汚なくののしられて後、追い出される羽目になってイコニオムへ向かわせた 《 パウロの説教の結果 》 に注目したい。
パウロの説教は、聞く者たちの明暗を明確にしたということである。ここに出て来る両極端の状態に注意したい !!
パウロの説教については、先週学びました。
先ず選民イスラエルの出エジプトの出来事から語り始め、直ちに神の救いのご計画を明らかにするのであるが、その要約は次の通りである。23節 「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主をお送りになりました」が、実に悲劇的なことに、27節 「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず・・・イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました」。しかしこの 《 イエス殺害 》 という、人間の愚かな恐るべき失敗にも神の奇しい摂理が働き、30節 「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」と。その結果、39節 「モーセの律法によっては解放【義と】されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放される【神の御前での正しい身分を与えられる】のです。」と福音を大胆に語った。最後に ※ 40節 「・・・あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。」と、《 旧約の預言者たちが、頑なな国民に向かってバビロン帝国による南ユダの襲撃を警告した言葉 》 を引き合いに出して、41節 「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。・・・」と、魂に責任ある説教者として説教を締め括った。
聖霊による説教は、会衆の明暗を分ける !!
① 42節~44節 「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来た・・・。次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」という 《 明 》 。
この人々は・・・
a. 43節c 「いつまでも神の恵みにとどまっているように」と伝えられた。
即ち、39節 脚注 ※ 「義と認められる」信仰にとどまること。常に神との正しい関係に自らを置くようにということである。
b. 44節 「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」とあるが、会堂で初めて聞いて感動した説教を、隣人に伝えざるを得なくされた。
c. 48節 「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった」のであるが、この「定められていた」という語は、神が人間の意志とは無関係に「定められた」ことを意味しない。神は、信じるすべての者を永遠の命に定められる一方、信じない者を永遠の死に定められるが、神がご自身の主権を行使して、あらかじめ「信じる者」と「信じない者」とに定めておられるのではない。 《 信じる、信じない 》 は、その人の個人の決断によるものであって、命を選ぶのか死を選ぶのかは、その人の責任である。この人たちは、自主的に自らの意志によって「永遠のいのち」に与る救いを選んだのだ。
② 45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」という 《 暗 》 。
この人々は・・・
a. 46節 「・・・しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」とある。
この「決めた」とは、何という厳粛な選択 !! 彼らのこの選択は、異邦人に対する妬みによるもの。
パウロは、同節 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。」と伝えて、彼らの誤った選民意識を正そうとした。この「まず」とは、アブラハムに語られた 《 創世記 12章2節~3節 》 のことで、あなたがたを選んで祝福し、異邦人の祝福の基とされた、の意。ところが、神の全人類を救おうとする救いの計画が成就したにも拘らず、彼らはこれを理解せず、異邦人が祝福されることを以ての外とする特権意識を抱いた。これは、甚だしく傲慢で極めて有害だと。本来、喜ぶべきこと !!
b. 50節 「ところが、ユダヤ人たちは・・・扇動して・・・迫害させ、ふたりをその地方から追い出し」てしまった。
説教者は追放されても、49節 「主のみことばは、この地方全体に広まった。」と、働きは阻止されなかったとは !!
※ この結果、46節e 「異邦人のほうへ向かい」、51節 「足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」二人。52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」とは、何という聖霊の圧倒的な前進 !! 唯、お互いも又、聖霊に働いて頂きたい。
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