使徒の働き13章13節~45節
先週から、エルサレム教会には、ユダヤ主義的問題がある中、異邦人教会として最初に誕生したアンテオケ教会を宣教の拠点に、異邦人世界へと 《 パウロによる伝道旅行 》 が開始された記事に入った。この為に、選びの器パウロがリーダーシップを取って行くことにはなるが、あくまでも、2節 「聖霊が・・・言われた。」/4節 「聖霊に遣わされて」と、聖霊が圧倒的な主導権を以って働かれると学んで Message とした。
この聖句の意味するところは ?
ⅰ パウロの伝道旅行は、人間的重荷から出たものではなく、あくまでも聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と仰ったことによる。
a. 「わたしのため」とあるのは、伝道の動機が主ご自身にあり、パウロの個人的な魂への情熱によらなかったことの証。
b. 「わたしが召した任務に」とは、聖霊が派遣者 !! であることを意味し、彼らは唯従うだけで良かったことの証。
ですから自らを、コリント人への手紙 第二 5章20節 「キリストの使節」、国家の代表として派遣されている者と自覚し、「神が私たちを通して・・・私たちは、キリストに代わって」と出たのだ。
困難に直面した時、※ 11節 「見よ。主の御手が今、おまえの上にある。」と言うことが出来たのも、この自覚の故。
ⅱ そこで重要なのは、9節 「聖霊に満たされ」にある !!
聖霊に語られるところに聞き、そこに従い、いつでも、それを確認して生活していること。2節 「主を礼拝し、断食をしていると・・・」と、主との絶えざる交わりに生きる生活。
※ いつでもパウロの 《 大胆さ、洞察力 》 はここに鍵が !! と。
今朝は、13節~14節の、「ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。しかし彼らは・・・」とある出来事に注目したい。
「彼ら ⇒ パウロとバルナバ」が、「( パンフリヤの )ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた」ことに始まった働きを伝えるのに、5節 「助手として」同行していたヨハネがペルガに着くや否や、「一行から離れて、( 実家のある )エルサレムに帰った」ことを受けて、「しかし」と伝えている点に注意して、Message としたい。
先ず、ヨハネ( マルコと呼ばれるヨハネ )は何故一行から離れたのか ?
この第一次伝道旅行を終えて、もう一度という時のこと、15章30節~41節の38節~39節 「パンフリヤで一行から離れてしまい【見捨てて】、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい【最善】と考えた。そして激しい反目【鋭い意見の対立】・・・」を引き起こしたとある。
ところが20年近く経って、晩年囚人パウロから、テモテを通して「マルコを伴って・・・来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 テモテへの手紙 第二 4章11節」と言われる人物に変えられているのを見る。
こうしたことから、短絡的に “ ヨハネは不信仰だった ” と片付けるべきではなく、宣教の困難さに耐え得るだけの霊的経験が未熟だったからと見るべきなのでは ?
その理解で、4節 「ふたりは聖霊に遣わされて」を読むと、ヨハネは未だ、聖霊からの直接的な召しに与っているのでもなく、唯、5節 「助手」的立場にある者でしかなく、志を抱いていたに過ぎない訓練生だったから、が理由なのでは ?
14節 「しかし彼らは」と、こうした働き人の中に問題が生じても動じなかったことが評価された二人が、「ペルガから進んで」、更に151キロ北上した「ピシデヤのアンテオケ」で実を結んだ【42節~44節】ことから 《 彼らの信仰の姿勢 》 を学びたい。
① 人間的気負いが見られないこと。
彼ら二人は、どのような気持ちで自らの席を占めていたのでしょう。パウロが立ち上がって開口一番 ※ 16節 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々」と呼び掛けた呼び掛けには、パウロの 《 そこに集まっている会衆がどのような人々であるかを 》 知っている様子が伺える。
又、パウロのその霊的洞察力を裏付けると思われるのが、15節 「律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。『 ・・・この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。 』 」と、この説教依頼の動き。見知らぬ彼ら二人を誰と思ったのか ?
いずれにせよ、そのような渇いた魂を目の前にした時、何としてもここで福音のメッセージを・・・との衝動、勇み立つ気持ちが生じ兼ねないところ !! しかし、要請が来るまで会衆席にいる姿に、聖霊に委ねた明け渡しの信仰を見るのでは !!
ここに、2節 「聖霊が、『 バルナバとサウロをわたしのために聖別して・・・ 』 」との伝道の動機が聖霊にあるとの証がある。
② 伝えるべきメッセージが明確であること。
ペテロの手紙 第一 3章15節b 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とは、私たちにおいても同様である。
弁明の中心は、言うまでもなく 《 救い主イエスの誕生と十字架、そして復活。その結果について 》 である。23節 「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主をお送りになりました。」/29節~30節 「こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」/39節 「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」と。
③ 決して、福音を語るのに反応の如何に動じないこと。
マルコの福音書 12章14節 「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない【 ※ 人に取り入ろうとしない】方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」とあるように。
パウロはメッセージの締め括りに至った時、大胆に、40節~41節 「ですから・・・気をつけなさい。」と迫り、会衆に対して責任を果たしている。
そこには見事な手応えがあったが、このような結実には、決まって迫害が押し寄せる。その動機は、45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」という妬みである。
※ 聖霊に満たされていることの何と自由で、力強いことか !! 主の為に、聖霊によって遣わされているとの自覚を明確に。
先週から、エルサレム教会には、ユダヤ主義的問題がある中、異邦人教会として最初に誕生したアンテオケ教会を宣教の拠点に、異邦人世界へと 《 パウロによる伝道旅行 》 が開始された記事に入った。この為に、選びの器パウロがリーダーシップを取って行くことにはなるが、あくまでも、2節 「聖霊が・・・言われた。」/4節 「聖霊に遣わされて」と、聖霊が圧倒的な主導権を以って働かれると学んで Message とした。
この聖句の意味するところは ?
ⅰ パウロの伝道旅行は、人間的重荷から出たものではなく、あくまでも聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と仰ったことによる。
a. 「わたしのため」とあるのは、伝道の動機が主ご自身にあり、パウロの個人的な魂への情熱によらなかったことの証。
b. 「わたしが召した任務に」とは、聖霊が派遣者 !! であることを意味し、彼らは唯従うだけで良かったことの証。
ですから自らを、コリント人への手紙 第二 5章20節 「キリストの使節」、国家の代表として派遣されている者と自覚し、「神が私たちを通して・・・私たちは、キリストに代わって」と出たのだ。
困難に直面した時、※ 11節 「見よ。主の御手が今、おまえの上にある。」と言うことが出来たのも、この自覚の故。
ⅱ そこで重要なのは、9節 「聖霊に満たされ」にある !!
聖霊に語られるところに聞き、そこに従い、いつでも、それを確認して生活していること。2節 「主を礼拝し、断食をしていると・・・」と、主との絶えざる交わりに生きる生活。
※ いつでもパウロの 《 大胆さ、洞察力 》 はここに鍵が !! と。
今朝は、13節~14節の、「ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。しかし彼らは・・・」とある出来事に注目したい。
「彼ら ⇒ パウロとバルナバ」が、「( パンフリヤの )ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた」ことに始まった働きを伝えるのに、5節 「助手として」同行していたヨハネがペルガに着くや否や、「一行から離れて、( 実家のある )エルサレムに帰った」ことを受けて、「しかし」と伝えている点に注意して、Message としたい。
先ず、ヨハネ( マルコと呼ばれるヨハネ )は何故一行から離れたのか ?
この第一次伝道旅行を終えて、もう一度という時のこと、15章30節~41節の38節~39節 「パンフリヤで一行から離れてしまい【見捨てて】、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい【最善】と考えた。そして激しい反目【鋭い意見の対立】・・・」を引き起こしたとある。
ところが20年近く経って、晩年囚人パウロから、テモテを通して「マルコを伴って・・・来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 テモテへの手紙 第二 4章11節」と言われる人物に変えられているのを見る。
こうしたことから、短絡的に “ ヨハネは不信仰だった ” と片付けるべきではなく、宣教の困難さに耐え得るだけの霊的経験が未熟だったからと見るべきなのでは ?
その理解で、4節 「ふたりは聖霊に遣わされて」を読むと、ヨハネは未だ、聖霊からの直接的な召しに与っているのでもなく、唯、5節 「助手」的立場にある者でしかなく、志を抱いていたに過ぎない訓練生だったから、が理由なのでは ?
14節 「しかし彼らは」と、こうした働き人の中に問題が生じても動じなかったことが評価された二人が、「ペルガから進んで」、更に151キロ北上した「ピシデヤのアンテオケ」で実を結んだ【42節~44節】ことから 《 彼らの信仰の姿勢 》 を学びたい。
① 人間的気負いが見られないこと。
彼ら二人は、どのような気持ちで自らの席を占めていたのでしょう。パウロが立ち上がって開口一番 ※ 16節 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々」と呼び掛けた呼び掛けには、パウロの 《 そこに集まっている会衆がどのような人々であるかを 》 知っている様子が伺える。
又、パウロのその霊的洞察力を裏付けると思われるのが、15節 「律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。『 ・・・この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。 』 」と、この説教依頼の動き。見知らぬ彼ら二人を誰と思ったのか ?
いずれにせよ、そのような渇いた魂を目の前にした時、何としてもここで福音のメッセージを・・・との衝動、勇み立つ気持ちが生じ兼ねないところ !! しかし、要請が来るまで会衆席にいる姿に、聖霊に委ねた明け渡しの信仰を見るのでは !!
ここに、2節 「聖霊が、『 バルナバとサウロをわたしのために聖別して・・・ 』 」との伝道の動機が聖霊にあるとの証がある。
② 伝えるべきメッセージが明確であること。
ペテロの手紙 第一 3章15節b 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とは、私たちにおいても同様である。
弁明の中心は、言うまでもなく 《 救い主イエスの誕生と十字架、そして復活。その結果について 》 である。23節 「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主をお送りになりました。」/29節~30節 「こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」/39節 「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」と。
③ 決して、福音を語るのに反応の如何に動じないこと。
マルコの福音書 12章14節 「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない【 ※ 人に取り入ろうとしない】方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」とあるように。
パウロはメッセージの締め括りに至った時、大胆に、40節~41節 「ですから・・・気をつけなさい。」と迫り、会衆に対して責任を果たしている。
そこには見事な手応えがあったが、このような結実には、決まって迫害が押し寄せる。その動機は、45節 「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」という妬みである。
※ 聖霊に満たされていることの何と自由で、力強いことか !! 主の為に、聖霊によって遣わされているとの自覚を明確に。
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赤壁愛和