聖日礼拝 『使徒の働き』 より 28


使徒の働き12章25節~13章12節

先週は、ヘロデ王が、2節 「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」という 《 使徒から最初の殉教者を出し、更にペテロをもという局面に立たされた 》 エルサレム教会に注目した。
代々ヘロデ家は 《 ヤコブの双子の兄弟エサウの子孫であり、キリストに挑戦し続けるサタンの手先 》 で、主の殺害を謀ったヘロデ大王、バプテスマのヨハネを殺害したその息子ヘロデ・アンテパス、この2節で使徒ヤコブを殺害した大王の孫ヘロデ・アグリッパ、更に、使徒ペテロの殺害をも謀った、福音宣教を阻止する血統であると学んだ。しかし、ここで聖徒を葬りつつも、24節 「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」と、厳然と事を進められる主の働きに注目した。

ⅰ 6節~7節 「ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて・・・。すると突然、主の御使いが現れ」に、完璧で迅速に干渉される主を見る。
ペテロは4節~6節、厳重な監視下に在って絶体絶命の中、唯、主の御使いの命じるがまま従うのみ。ペテロは、主導権を握っておられる主の完璧さをもって救出された。

ⅱ 23節 「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。」に、神の裁きのあることを厳格に顕示された主を見る。
ガラテヤ人への手紙 6章7節 「思い違いをしてはいけません。神は 侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」との厳粛な結果を見た !!

※ いずれにしても、主の業は「すると突然」、「するとたちまち」に、である。いつまで ? との思いを抱きがちの私たちは、自らの見解を以って主を侮らずに自戒して、主への信頼をと。


さて、迫害下にあるエルサレム教会には、その厳しさと共に、彼ら特有のユダヤ主義的体質の問題がある中、聖霊は、こうした教会の実情を把握しつつ、一方で 《 異邦人教会として最初に誕生したアンテオケ教会を宣教拠点として 》 教会に異邦人世界への関心を与えて、積極的に動き出されることに。
今朝学ぶ13章から 《 三回に亘るパウロによる伝道旅行 》 が始まり、今回の記事は、その第一回目のもの。
アンテオケ教会から、2節 「バルナバとサウロ」が派遣されることになり、助手としてヨハネ( 12章12節~25節 「マルコと呼ばれるヨハネ」 )が同行することになった。
彼らがキプロス島に着くや、12節 「・・・総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。」と、目覚ましい成果を見た。
この人物については、7節a 「地方総督セルギオ・パウロ」、7節b 「賢明な人」というローマの著名な高官である。彼には、官邸お抱えの教師( 総督の精神的・宗教的助言者 )として、6節 「にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師」がいた。彼がバルナバとサウロを招いて、7節c 「神のことばを聞きたいと思っていた」ところ、この魔術師の妨害を受けるが、サウロの導きを得て、福音に与った。
この魔術師は、サウロから ※ 10節 「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子・・・主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。」と言われているのを見る限り、総督の求道心を良いことに、官邸での居心地の良い立場を悪用して、肉欲を満たしていた人物と考えられる。

サウロはこの働きを契機に、主から言われていた「異邦人にわたしの名を運ぶ選びの器」として、本格的に 《 リーダーシップを取って 》 働きを開始する。13章の初め、サウロは、バルナバに次いで名が記されている( 1節、2節、7節 )が、9節 「サウロ、別名でパウロ」と、今までユダヤ名で呼ばれていたのが、この時点からギリシャ名で「パウロ」と呼ばれるようになり、それから後、「パウロとバルナバ」となる。それは、大々的に、ローマ帝国を相手に働きを進めるに当たって、国際的に通用するパウロ名を使う方が有効だからである。
確かに、これからパウロの活躍が前面に出て来るようになるが、やはり何と言っても、聖霊が圧倒的な主導権を以って働かれることを確認して、今朝の message としたい。
その為に、2節 「聖霊が・・・言われた。」/4節 「聖霊に遣わされて」が意味しているところを考えたい !!

① パウロによる伝道旅行は、人間的な重荷から出たものではなかったということ。

聖霊は、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と仰った。

a. 「わたしのため」とは、伝道の動機が主ご自身にあることを意味する。
ヨハネの福音書 11章3節 「あなたが愛しておられる者」だからである。ラザロは、マルタとマリヤの愛する兄弟である。しかし、いつでもその前に、主ご自身が愛している魂であるとの認識がなければ、挫折する。彼女たちがその信仰を失った時、挫折したのだ。
確かにパウロには、魂への燃えるばかりの情熱があった。しかし、私たちに隣人への関心があったとしても、私たちの素の状態・・・肉は、極めて自己中心だからである。ローマ人への手紙 5章7節 「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」と言われている通り。

b. 「わたしが召した任務に」とは、聖霊が派遣者 !! であるとの自覚で、彼らは唯従っただけのことを意味する。あくまでもパウロは、直接主から明確な召しとその任務の何なるかを伝えられていた。
彼の個人的な証言がそれを伝えている ⇒ 26章16節~20節。
パウロが自らを、コリント人への手紙 第二 5章20節 「キリストの使節」、国家の代表として派遣されている者と自覚していた。ということは、同節 「ちょうど神が私たちを通して・・・。私たちは、キリストに代わって・・・願います。」とあるように、完全に、自分の意思を主の意思に従わせている姿勢である。
パウロが魔術師の妨害に直面した時、※ 11節 「見よ。主の御手が今、おまえの上にある。」と言うことが出来たのも、この自覚の故。

② そこで重要なのは、9節 「聖霊に満たされ」にある !!

聖霊の語られるところに聞き、そこに従い、いつでも、それを確認して生活すること。2節 「主を礼拝し、断食をしていると」とは、光の中に常時生きることに他ならない。


※ いつでもパウロに見る 《 大胆さと洞察力 》 は、ここに鍵が !!

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