聖日礼拝 『使徒の働き』 より 27


使徒の働き12章1節~20節

先週は主の復活を記念して、21節a 「主の御手が彼らとともにあったので」との事実から 《 どのような現れにそれを見たのかに 》 注目した。

ⅰ 21節b 「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」ことに。
この光景について、詳訳では ※ 23節a 「神が恵みを彼らに与えておられるのを見て、喜びに満たされた」と説明している。
この「神の恵み」とは ? 「信じて主に立ち返った」人々にもたらされた救いの恵みのこと。20節c 「主イエスのことを宣べ伝えた」時、異邦人が悔い改めて、その生き方を変えた人々の中に見られたというのだ。
これまでの神なき生き方を止めて、神をお認めする生き方に方向転換し、背きの全てを罪と認めて告白し、十字架による赦しの恵みに与ったのだ。それこそ、復活の力である。
コリント人への手紙 第一 15章54節~57節 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は・・・勝利を与えてくださいました。」と、主の復活により、罪の束縛から解放されたからである。

ⅱ この恵みは、29節 「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」と、隣人の必要に応える教会へ成長させたことに。
アンテオケ教会は、エルサレム教会からの霊的援助に与って成長した。彼らは母教会の物質的必要を知った時、恵みに応えるべく直ちに立ち上がったとは、何と素晴らしい愛の関係が生まれたことか。

※ ローマ人への手紙 6章5節 「・・・必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」に与るべく、聖餐式に臨んだ。


今朝は、アンテオケ教会の目覚ましい成長が認められた ※ 1節 「そのころ」のこと、ヘロデ王が、2節 「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」という 《 使徒としては最初の殉教者を出した 》 エルサレム教会に注目したい。
そのエルサレム教会は、3節 「それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。」と、次から次へ指導者が抜き取られるという状況に置かれていた。
このヘロデ家の歴史を遡( さかのぼ )ると、イサクの子ヤコブと双子の兄弟エサウの子孫で、セイルのホリ人を追い払ってエドム( ギ・イドマヤ )人となった一族であることが分かる。 ⇒ 申命記 2章12節、22節。
ヤコブの子孫ユダヤ人との関係が悪く、南ユダのバビロン捕囚を喜んだとされている。 ⇒ 詩篇 137篇7節 「主よ。エルサレムの日に、『 破壊せよ、破壊せよ、その基までも 』 と言ったエドムの子らを思い出してください。」との祈りがあり、アモス書 1章11節 「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたからだ。」との糾弾が。
この関係は、既にヤコブとエサウの時代に始まり、先祖にこのヤコブを持つキリストへの敵対関係が続いていることになる。
ヘロデ大王の父が、アンティパテル二世。彼は、旧約時代から新約時代までの400年の中間時代、敵国からの保護の為、ローマ皇帝カイザルからの支持を取り付け、B.C.47年、帝国の行政長官として、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤを統治した。後に王位に着いたのが息子のヘロデ大王である。

代々ヘロデ家は、教会の福音宣教を阻止することを以って、《 ヤコブの子孫キリストに挑戦し続けるサタンの巧妙な手先 》 となっている。主の殺害を謀ったヘロデ大王のみならず、その息子ヘロデ・アンテパスによるバプテスマのヨハネ殺害、ここ12章では、大王の孫ヘロデ・アグリッパによる使徒ヤコブ殺害、更に、使徒ペテロの殺害をも謀ったのだ。
しかし主は、聖徒を葬りつつも、ご自身の贖いの業を中断させることなく、依然として働きを進められるお方なのだ。
教会は、人間的にはかなり厳しい状況下に置かれていた。5節 「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」のではあるが、いざ !! 助け出されたペテロが現れた時には、何と !! それを伝えた ※ 13節 「ロダという女中」に、15節 「あなたは気が狂っているのだ・・・それは彼の御使いだ」と言って信じようとはしなかったことで分かる。祈って期待してはいたものの、到底あり得ない、絶望的だと思っていたからに違いない。簡単に不信仰だと非難するより、それ程、迫害の威力が凄まじかったからだと読むべきでは !!
そのような弱さに纏われる教会ではあっても、祈って主を期待する教会を励まし、教会の中から葬られる聖徒が起こる中、24節 「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」と、厳然と事を進められる主の働きに注目を。

① 6節~7節 「ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて・・・すると突然、主の御使いが現れ」に、完璧で迅速に干渉される主を見る。

ペテロは、4節を見る限り、厳重な監視下に置かれており、絶体絶命である。ところが主は「御使い」を遣わし、7節~11節は何と見事な脱出を。9節でペテロが「現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。」とあるのも、11節 「我に返って」とあるのも、余りにも首尾よく運ばれた証拠 !! ペテロは唯、為されるがまま、言われるがままで良かった。人間的な手立ての何一つ入る余地のない完璧さ。
18節 「さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。」とあるように、敵の手から完全に保護された !! ペテロは ※ 17節d 「・・・ほかの所へ出て行った。」とあるが、数年後のエルサレム会議( ※ 15章 )に出席するのみで、『 使徒の働き 』 から姿を消すが、殉教までのほぼ20年余りは、宣教を続けることになる。

② 23節 「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。」に、神の裁きのあることを厳格に顕示された主を見る。

ガラテヤ人への手紙 6章7節に、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあるのは、いかにも厳粛ではないか !!


※ いずれにしても、「すると突然」、「するとたちまち」であるとは !! 主のなさることに少なからず、いつまで ? との思いを抱きがちでは。私たちは自らの見解を以って主を侮ることのないように、自戒して、主を信頼したい。

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