イースター記念礼拝 『使徒の働き』 より 26


使徒の働き11章19節~30節

先週は 《 ペテロが無割礼の人々と食事を共にしたとして 》 彼を非難したエルサレム教会に、ペテロが順序正しく事の次第を説明して、教会の理解を得たという記事に注目した。
ユダヤ教信仰からキリスト信仰への過渡期にある初代教会にとって、即刻の対応が迫られた出来事だった。
産みの苦しみをしながら成長する教会から ※ 18節の結果が得られたことは素晴らしい !! こうした結果の為には何が ?

ⅰ 4節 「そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。」とある、ペテロの冷静沈着な姿勢。
異邦人と食事を共にするようになったペテロも、後日、この「割礼派の人々を恐れて」異邦人から身を引くことがあった事実からして、この対応に勇気が必要だったのでは ?

ⅱ 8節 「しかし私は、『 主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません 』 と言いました。」と、自らも又同様、非難しているあなたがたの心情をしっかり知っているとの姿勢。
とかく非難する者を咎め、有無を言わせまいとする傾向性があるが、「自らも又同じ」だったと言える姿勢は幸い。

ⅲ 16節~17節 「主が・・・と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、・・・どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」と、聖書的根拠があっての出来事であると宣言する姿勢。
経験も然る事( さること )ながら聖書の事実こそ説得力である。

※ 教会内で起こる問題に恐れる必要はない。成長過程において問題は当然としつつ、対応の姿勢に留意するのみ、と。


今朝は、主の復活を記念する礼拝であることを覚えて ※ 21節 「主の御手が彼らとともにあったので・・・」の事実に注目を。
この詳訳は、「主は、力をもって彼らとともに臨在されたので・・・」とある。実にここに、主の復活は単なる教理上の問題ではなく、極めて現実的な力であることが証されている。
復活は 《 あるのかないのかを議論すべき 》 問題ではなく、《 あったとの事実を受け入れるのか受け入れないのかの 》 問題であって、誰もが冷静に向き合うべき歴史的事実なのだ。
主の使徒たちは、2章32節 「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と告白するに至っているが、その彼らも、実は主のご在世中、決して信じる者ではなかった。
ヨハネの福音書 20章19節~27節は、この事実を伝えている 【特に、疑うトマスは痛みの中で信仰告白を】。
使徒パウロも又、26章8節~16節 「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。以前は、私自身も・・・」と伝えている。
このような訳で使徒たちは皆、復活の主との直接的な接触が与えられて初めて主の復活を認めたのだ。そしてこの事実を知った時、コリント人への手紙 第二 5章14節~15節 「・・・もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」を当然のこととしたのだ。
『 使徒の働き 』 は 《 主が、「一粒の麦として」エルサレムの地に落ちて死んで後の復活以来 》 たった30年で、ローマ大帝国を相手に、福音を地中海沿岸一帯に広めた記録であるが、その結実こそ、主の復活を実証するものなのだ。
24章1節~5節 「・・・この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。」とまで言わせたその影響力は、やがて世界を福音で満たすのだ。

11章21節a 「主の御手が彼らとともにあったので」との事実によって 《 どのような現れを見たのかに 》 注目を。

① 21節b 「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」ことに。

その為、22節 「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣し」、24節 「彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた」と。25節~26節では、バルナバによって郷里で待機中のサウロ( 9章26節~30節 )が抜擢され、恵みに満たされたアンテオケ教会が誕生することになった !! 弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになったのは、このアンテオケに始まったともある。
この光景について、詳訳では ※ 23節a 「神が恵みを彼らに与えておられるのを見て、喜びに満たされた」と説明している。
この「神の恵み」とは ? 「信じて主に立ち返った」人々にもたらされた救いの恵みのことで、20節c 「主イエスのことを宣べ伝えた」時、異邦人が悔い改めて、その生き方を変えた人々の中に見られたもの。
これまでの神なき生き方を止めて、神をお認めする生き方に方向転換し、背きの全てを罪と認めて告白し、十字架による赦しの恵みに与ったのだ。彼らに見られた恵みは、バルナバを喜びで満たしたのだ ! それこそ、復活の力である。何故なら、コリント人への手紙 第一 15章50節~58節に、復活が何を意味し、どれ程の勝利が約束されているかについて ※ 51節 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。」と宣言されているからである。この奥義は、54節~57節 「・・・ 『 死は勝利にのまれた 』 としるされている、みことばが実現します。・・・死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は・・・勝利を与えてくださいました。」との復活の勝利なのだ。

② この恵みは、29節 「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」と、隣人の必要に応える教会へと成長させた。

アンテオケ教会は、26節 「まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。」とあるように、バルナバとサウロの牧会を受けた。
27節~30節によると、早くも、29節~30節 「そこで、弟子たちは、・・・それを実行して」とは !! アンテオケ教会は、エルサレム教会からの霊的援助に与って成長した。彼らは母教会の物質的必要を知った時、恵みに応えるべく、直ちに立ち上がったということは、何と素晴らしい愛の関係が生まれたことか !!


※ ローマ人への手紙 6章5節 「・・・必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」に与るべく、聖餐式に臨みたい。

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