聖日礼拝 『使徒の働き』 より 24


使徒の働き10章23節b~48節

先週、福音の拡大を見るようになって行った教会は、ユダヤ人だけに限られていた構成メンバーに、10章に至って初めて、カイザリヤ在住の異邦人コリネリオを迎えるという新たな局面を迎えた出来事に注目した。
この事実を11節~16節で、※ 13節~14節 「さあ、ほふって食べなさい」との指示に対し、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と言ったペテロの困惑、抵抗した様子に見た。しかし幸いなことに、ペテロが遂に ※ 23節b~24節 「出かけた」と !! ここに、聖霊の働きに与る在り方に留意した。

ⅰ ペテロが抗議しつつも、《 耳にした主の言葉【15節】を滅相もないこととして 》 片付けなかった態度。
実際、今日まで固く守り続けて来た習慣を覆すことになるこの指示は、ユダヤ人としては到底理解し難いことで、ペテロの困惑状態は止むなきこと。しかしそうだからと言うので、ペテロが頭から拒絶せずに ※ 17節で唯、純粋に思い悩んだ姿勢は幸いである !! 聖霊の 《 ペテロの直面したユダヤ的習慣からの変更を受け入れる難しさを理解して穏やかに接近された 》 指導に感謝した。前以って ※ 1節~8節 〈 コルネリオへの接近 〉に見られる配慮があったのだからと。

ⅱ 聖霊の配剤は ※ 2節 「神に祈りをしていた」 ※ 9節 「祈りをする」 ※ 19節 「思い巡らしている」時を持つ、その姿勢に。
何故なら、主との絶えざる交わりに生きている時にだけ、これぞ主の導き ! と確信して従うようにして頂けるから。

※ いつでも、主の御心と確信出来る距離で生活を、と !!


今朝は、ペテロが赴いたカイザリヤに場面が移ります。
25節 「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。」とは、何という感動的な場面 !!
たった二日前には、汚れた動物をほふって食べなさいと言われた主のご指示を理解し難いこととして拒み悩んだペテロ。その彼が、聖霊の穏やかな指導に与って遂に、「ほふって、食べなさい。神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」との主のご指示の意義を知ることになるのだから。
9章31節で、「教会は・・・聖霊に励まされて前進し続けたので」と学びましたが、今一度、この「聖霊によって」とはどのようなことによって ? なのかに触れて、本題に入りたい。
人間的気負いがないことが特色 !! むしろ人間的には、得てして躊躇感すら覚えるとの特色が。それはあくまでも、聖霊の圧倒的な主導権によるものだからである。
この面でも想起するのが、主に見る奥床しさである。マタイの福音書 4章12節、17節 「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。・・・この時から」、ヨハネの福音書 2章4節、8節 「すると、イエスは母に言われた。『 ・・・わたしの時はまだ来ていません。 』 ・・・ 『 さあ、今くみなさい。 』 」と仰ったことに。
主ご自身の 《 唯、聞いて従う 》 姿勢を、ペテロが肉を扱われ砕かれて 《 聞いたところに従った 》 姿勢に見るのは幸い !!
あのせっかちな性格を特色としていたペテロが、10章20節 「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。」と言われて、初めて、21節 「そこでペテロは・・・降りて行って・・・」と行動に移すとは !! かつての彼には見られなかった奥床しさでは !!
こうした経緯で従ったペテロの前に、救いを求め渇いているコルネリオが現れるという場面の故の感動なのだ !!

私たちは、この感動的な場面で何を学ぶべきなのか ?

① 聖霊が私たちを遣わされるのは 《 いつでも救いを必要としている人々のもとに 》 であること。

確かに、救いは全ての人々に提供されている。
しかしそれだからというので、単なる肉的な熱意で ? 手当たり次第に ? というものであってはならない。使徒たちは、聖霊によって 《 ここに、この人に 》 と運ばれ、御名を運ぶ器となっていることが特色なのだ。16章6節 「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」との指示が出て来ることでも明らかである。 

② この時にどうしても必要になるのが、何と言っても、聖霊によって導かれるという 《 一にも二にも霊的経験の確かさ 》 であること。

この一点がおざなりにされた宣教は、少なくとも主の求め、期待しておられる働きではない。その為、初代教会が聖霊との密着した関係を重視したことは当然なのだ !!
主の警告にはいつも留意したい。マタイの福音書 7章15節~23節 「・・・その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『 ・・・預言をし・・・悪霊を追い出し・・・行( おこな )ったではありませんか。 』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『 ・・・わたしから離れて行け。 』 」とは、厳粛なことなのだ !!
主は〈 結果があればそれで良し 〉とされるお方ではない。
問題は、「不法をなす者 ⇒ 主の戒めを無視する者」である限り、業そのものに意味がないということ。それどころか、その結果をもって良しとする自己満足に陥り兼ねないので、危険でさえあるのだ。私自身、ここに陥り兼ねない罠が、どのようなものであるかを知らせて頂いて来ている。
ペテロの働きは唯、肉を扱ってくださった聖霊に従うだけのことだった。29節 「それで・・・来たのです。」/34節 「これで私は、はっきりわかりました。」/47節 「・・・聖霊を受けたのですから、いったいだれが・・・」と、聖霊のなさることを見て行う姿勢に顕著。主の「自分からは何事も・・・」に準じる !!

③ そこには聖霊による 《 渇いた魂の備え 》 があったこと。

ここに、人の介入の余地は全くない。
ペテロの目の前には、コルネリオによって既に呼び集められた ※ 24節 「親族や親しい友人たち」、27節 「多くの人が」いた !! そして、33節 「よくおいでくださいました・・・」と !! コルネリオは唯一神に目覚め、ユダヤ的習慣に従う宗教生活をしていた( 2節 )。全家族とあり、部下に ※ 7節 「敬虔な兵士」を持つ程の影響力 !! しかも、イタリヤ隊【帝国から強大な警察力として配置され、ローマ人のみで編成される通常600人の部隊】の責任者が、と考える時、先立って働かれる聖霊の驚異的干渉の素晴らしさと見るのみ。


※ もっと聖霊の働きを期待する謙遜な者でありたい。

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