使徒の働き10章1節~24節
先週は、「教会は・・・前進し続けた」とある 《 その要因について、「こうして」と受けている内容 》 から学んだ。ほぼ10年の経過を見たと考えられる教会の宣教活動範囲は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられ」たのだ。その鍵を ※ 31節 「聖霊に励まされて前進し続けたので・・・」に。
ⅰ 使徒たちは、迫害がなかったならば、恐らく、エルサレムから出なかったのでは ? と見て来た。主の ※ 1章8節に関する積極的なビジョンがあったとは考え難い。教会は内部で発生する諸問題を解決しつつ、互いの間の愛を確立して行った。実はその愛に満ちた教会に、聖霊は干渉されたのだ。
迫害は教会を滅ぼす為に教会を襲ったが、聖霊はその迫害を聖手に収め、打たれた教会を強め、徐々に宣教の何なるかを学ぶように教え導かれた。迫害をすら宣教拡大の好機とされた、聖霊による前進 !!
ⅱ 迫害者サウロを回心に導くのに、聖霊は器を備えられた。
アナ二ヤは、ダマスコで評判の良い人であったとは言え、主の ※ 11節 「サウロというタルソ人を・・・尋ねなさい。」との指示には即刻従えずに抗議したが、主の説得により、※ 17節 「兄弟サウロ。」と、言わせた聖霊。又サウロが、エルサレム教会から理解が得られずに恐れられていた時、27節 「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ」と連れて行かせた聖霊。聖霊は、13節 「この人が・・・どんなにひどいことをしたかを聞きました。」に見られる教会の 《 先入観にとらわれる肉、固定概念に縛られる肉 》 を扱い、聖霊に満たされた器を起用された。
※ 顕著な、聖霊の働きによる前進を体得させて頂きたいと。
先週は、【32節 「あらゆる所を巡回した」ペテロによって、教会は「その道」が地理的な境界線、人種的な壁を越えて広がっていくものであることに気付かされていった】と学びましたが、今朝は、正にその一コマである顕著な出来事に注目したい。
これまで、世界宣教への幕開けとも言うべき 《 ペンテコステの日 》 では、離散していたユダヤ人のみならず、2章10節~11節 「・・・滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人」と、彼らも聖霊降臨時に遭遇し、ペテロの説教を聞いた。しかし、誕生した教会の構成メンバーになった訳ではなく、それはユダヤ人に限られていた。
後の迫害によって、福音はユダヤ人が蔑視していたサマリヤ人にも届けられ、彼らが教会に加えられたことで、互いの間にあった一つのバリアが崩された。しかし、彼らもユダヤ人。その後、ピリポがエチオピヤ人に遣わされて、異邦人に初めて救いが及んだことは、驚くべきことではあったが、彼らがエルサレム教会の交わりに加えられた訳ではなかった。
このような訳で、10章に至って、カイザリヤに住む異邦人コルネリオに救いが届けられ、教会に迎えられたことは、画期的な出来事 !! このことが如何に驚くべきことであったかは、その後の教会に 《 分裂の危機をすら招き兼ねない 》 動揺を引き起こしたことで明らかなのだ。11章1節~4節には、「さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで・・・割礼を受けた者たちは、彼を非難して・・・」という反応に見られる。
こうした反応は無理からぬ状況によるものと、理解すべきこと。何故なら、その初めペテロですら困惑したのだから。
10章9節 「祈りをするために屋上に上った」ペテロが幻を見た時のこと。※ 13節~14節 「 『 ・・・さあ、ほふって食べなさい 』 という声が聞こえた。しかしペテロは言った。『 主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。 』 」とのやり取りがあったのだ( 11節~16節 )。
「ほふって食べなさい」と、ペテロの目の前につり降ろされた物は皆、旧約聖書が食べてはならないと禁じていた生き物ばかりだったから。とうことは、キリスト者となった人々の食生活は、依然としてユダヤ人の習慣に従っていたことになる。その習慣に問題を感じなかったのだ。ところが何と、15節 「すると、再び声があって、彼にこう言った。『 神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。 』 」とは !!
ある聖書学者は、 “ 「大きな敷布のような入れ物」の中に入れられている「地上のあらゆる種類の四つ足の動物・・・」とは、おそらく全世界の象徴であり、様々な国々の象徴だろう。民族の差別なしに、その全住民に提供するために、世界の四隅に福音は宣べ伝えられるべきである ” と説明している( 11節~12節 )。確かに後ペテロが言った、34節~35節 「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても・・・」との言葉はこの事実を裏付けているのでは !!
ペテロは、そして教会は、諭されながら理解を得るようになって行く。それは、主の十字架によって既に、「隔ての壁」が打ち壊されたからである。 ⇒ エペソ人への手紙 2章11節~22節。
幸いなことに、幻の指示に抗議したペテロが遂に、23節b~24節 「明くる日、・・・立って彼らといっしょに出かけた」ここに、彼を従順に導かれた聖霊の働きを学んで Message としたい。
ペテロが抗議しつつも、17節 詳訳 「なおも心の中で、今見たばかりの幻はどういう意味であろうかと不思議〈 疑問 〉に思っていると、【ちょうどその時】見よ、コルネリオから遣わされた使者たちが、シモンの家を尋ね当てて、門の前で止まった」に見る、聖霊による配剤の幸いさである !!
画期的な聖霊の働きに与る為の在り方に留意したい。
① ペテロが 《 耳にした主の言葉【15節】を滅相もないこととして 》 片付けなかった態度に。
実際、今日まで固く守り続けて来た習慣を覆すようにと迫る指示は、ユダヤ人としては到底理解し難いこと。ペテロの困惑状態は止むなきこと。しかしそうだからと言うので、このペテロが頭から拒絶せずに、唯、純粋に思い悩んだ姿勢は幸いである !! 聖霊は、ペテロが直面した 《 ユダヤ的習慣からの変更を受け入れること 》 の難しさを理解して、穏やかに接近された。その指導に感謝したい。前もって ※ 1節~8節 〈 コルネリオへの接近 〉があったことに見る配慮。
② 聖霊の配剤は ※ 2節 「神に祈りをしていた」 ※ 9節 「祈りをする」 ※ 19節 「思い巡らしている」時に、であることに。
何故なら、主との絶えざる交わりに生きている時にだけ、《 これぞ、主の導き 》 と確信して従うようにして頂けるから。
※ いつでも主の御心と確信出来る距離での生活を !!
先週は、「教会は・・・前進し続けた」とある 《 その要因について、「こうして」と受けている内容 》 から学んだ。ほぼ10年の経過を見たと考えられる教会の宣教活動範囲は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられ」たのだ。その鍵を ※ 31節 「聖霊に励まされて前進し続けたので・・・」に。
ⅰ 使徒たちは、迫害がなかったならば、恐らく、エルサレムから出なかったのでは ? と見て来た。主の ※ 1章8節に関する積極的なビジョンがあったとは考え難い。教会は内部で発生する諸問題を解決しつつ、互いの間の愛を確立して行った。実はその愛に満ちた教会に、聖霊は干渉されたのだ。
迫害は教会を滅ぼす為に教会を襲ったが、聖霊はその迫害を聖手に収め、打たれた教会を強め、徐々に宣教の何なるかを学ぶように教え導かれた。迫害をすら宣教拡大の好機とされた、聖霊による前進 !!
ⅱ 迫害者サウロを回心に導くのに、聖霊は器を備えられた。
アナ二ヤは、ダマスコで評判の良い人であったとは言え、主の ※ 11節 「サウロというタルソ人を・・・尋ねなさい。」との指示には即刻従えずに抗議したが、主の説得により、※ 17節 「兄弟サウロ。」と、言わせた聖霊。又サウロが、エルサレム教会から理解が得られずに恐れられていた時、27節 「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ」と連れて行かせた聖霊。聖霊は、13節 「この人が・・・どんなにひどいことをしたかを聞きました。」に見られる教会の 《 先入観にとらわれる肉、固定概念に縛られる肉 》 を扱い、聖霊に満たされた器を起用された。
※ 顕著な、聖霊の働きによる前進を体得させて頂きたいと。
先週は、【32節 「あらゆる所を巡回した」ペテロによって、教会は「その道」が地理的な境界線、人種的な壁を越えて広がっていくものであることに気付かされていった】と学びましたが、今朝は、正にその一コマである顕著な出来事に注目したい。
これまで、世界宣教への幕開けとも言うべき 《 ペンテコステの日 》 では、離散していたユダヤ人のみならず、2章10節~11節 「・・・滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人」と、彼らも聖霊降臨時に遭遇し、ペテロの説教を聞いた。しかし、誕生した教会の構成メンバーになった訳ではなく、それはユダヤ人に限られていた。
後の迫害によって、福音はユダヤ人が蔑視していたサマリヤ人にも届けられ、彼らが教会に加えられたことで、互いの間にあった一つのバリアが崩された。しかし、彼らもユダヤ人。その後、ピリポがエチオピヤ人に遣わされて、異邦人に初めて救いが及んだことは、驚くべきことではあったが、彼らがエルサレム教会の交わりに加えられた訳ではなかった。
このような訳で、10章に至って、カイザリヤに住む異邦人コルネリオに救いが届けられ、教会に迎えられたことは、画期的な出来事 !! このことが如何に驚くべきことであったかは、その後の教会に 《 分裂の危機をすら招き兼ねない 》 動揺を引き起こしたことで明らかなのだ。11章1節~4節には、「さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで・・・割礼を受けた者たちは、彼を非難して・・・」という反応に見られる。
こうした反応は無理からぬ状況によるものと、理解すべきこと。何故なら、その初めペテロですら困惑したのだから。
10章9節 「祈りをするために屋上に上った」ペテロが幻を見た時のこと。※ 13節~14節 「 『 ・・・さあ、ほふって食べなさい 』 という声が聞こえた。しかしペテロは言った。『 主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。 』 」とのやり取りがあったのだ( 11節~16節 )。
「ほふって食べなさい」と、ペテロの目の前につり降ろされた物は皆、旧約聖書が食べてはならないと禁じていた生き物ばかりだったから。とうことは、キリスト者となった人々の食生活は、依然としてユダヤ人の習慣に従っていたことになる。その習慣に問題を感じなかったのだ。ところが何と、15節 「すると、再び声があって、彼にこう言った。『 神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。 』 」とは !!
ある聖書学者は、 “ 「大きな敷布のような入れ物」の中に入れられている「地上のあらゆる種類の四つ足の動物・・・」とは、おそらく全世界の象徴であり、様々な国々の象徴だろう。民族の差別なしに、その全住民に提供するために、世界の四隅に福音は宣べ伝えられるべきである ” と説明している( 11節~12節 )。確かに後ペテロが言った、34節~35節 「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても・・・」との言葉はこの事実を裏付けているのでは !!
ペテロは、そして教会は、諭されながら理解を得るようになって行く。それは、主の十字架によって既に、「隔ての壁」が打ち壊されたからである。 ⇒ エペソ人への手紙 2章11節~22節。
幸いなことに、幻の指示に抗議したペテロが遂に、23節b~24節 「明くる日、・・・立って彼らといっしょに出かけた」ここに、彼を従順に導かれた聖霊の働きを学んで Message としたい。
ペテロが抗議しつつも、17節 詳訳 「なおも心の中で、今見たばかりの幻はどういう意味であろうかと不思議〈 疑問 〉に思っていると、【ちょうどその時】見よ、コルネリオから遣わされた使者たちが、シモンの家を尋ね当てて、門の前で止まった」に見る、聖霊による配剤の幸いさである !!
画期的な聖霊の働きに与る為の在り方に留意したい。
① ペテロが 《 耳にした主の言葉【15節】を滅相もないこととして 》 片付けなかった態度に。
実際、今日まで固く守り続けて来た習慣を覆すようにと迫る指示は、ユダヤ人としては到底理解し難いこと。ペテロの困惑状態は止むなきこと。しかしそうだからと言うので、このペテロが頭から拒絶せずに、唯、純粋に思い悩んだ姿勢は幸いである !! 聖霊は、ペテロが直面した 《 ユダヤ的習慣からの変更を受け入れること 》 の難しさを理解して、穏やかに接近された。その指導に感謝したい。前もって ※ 1節~8節 〈 コルネリオへの接近 〉があったことに見る配慮。
② 聖霊の配剤は ※ 2節 「神に祈りをしていた」 ※ 9節 「祈りをする」 ※ 19節 「思い巡らしている」時に、であることに。
何故なら、主との絶えざる交わりに生きている時にだけ、《 これぞ、主の導き 》 と確信して従うようにして頂けるから。
※ いつでも主の御心と確信出来る距離での生活を !!
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