聖日礼拝 『使徒の働き』 より 19


使徒の働き9章1節~22節

先週は、8章26節 「ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った・・・」を鍵句に 《 ピリポの従順 》 に注目した。
「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」と、主の使いによる 《 何時、何処へ 》 の指示は明確だった。
何時 ? に対しては、この「ところが」と、※ 8節 「それでその町に大きな喜びが起こった」矢先でのこと。何処 ? に対しては、サマリヤの町からガザに下る道が何本もあるにも拘らず、敢えて、エルサレム経由でガザへとの指示である。
一言二言、理解し難い思いをぶつけて、何故 ? と尋ねたがるのが肉の性質である。しかしピリポは即刻従った !!

ⅰ 従順は、聖霊の実による。
ガラテヤ人への手紙 5章22節~23節 「御霊の実は・・・柔和」とあり、ひとたび主のみ旨が明らかにされたならば、人間的な様々な思いが心に行き交ったとしても、主を信頼して全てをお任せして従う姿勢である。

ⅱ 従順は、聖霊の働きに道を開く。
27節~28節 「そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官( かんがん )のエチオピヤ人がいた。」と、聖霊の指示には、思いがけない出会いが備えられていた。
その宦官は、39節 「それから後彼( ピリポ )を見なかったが、喜びながら帰って行った。」とある。彼は帰って後、アフリカ大陸宣教の先駆者となったと言われているが、彼のこの霊的経験の確かさから見て、最もだと頷けるのでは !

※ 今、教会に求められているのも又、聖霊へのこの従順 !! と。


今朝は、8章3節で中断していた 《 迫害者サウロ 》 のその後に注目したい。8章4節からの、迫害で離散したヘレニストによる宣教を経ての、9章1節 「さてサウロは」であるが・・・
何と !! あの迫害者サウロが回心した出来事にである。一体誰が想像し得たことだっただろう !! 先ず教会において然り。1節~2節 「なおも主の弟子たちに対する脅( おびや )かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道のものであれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」と、サウロの迫害への情熱は留まることを知らない勢いだったのだから。
彼が師事していた律法学者ガマリエルのあの議会での発言【5章34節~39節】を完全に無視する強引さ。思い出して頂きたい。大祭司が率いる議会は、ガマリエルの説得によって止むなく 《 ペテロとヨハネを釈放せざるを得なくされた 》 のだ。それは、ガマリエルが全ての人に尊敬されている人物だった為、人々の手前、彼の意見を無視する訳には行かなかったからである。腹の虫が治まらなかった議会は腹癒せに、5章39節d~40節 「・・・彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放」するのが関の山。
その議会ですら、39節 「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」のガマリエルの一言に、不承不承とは言え、従った。ところがサウロは、彼の門下生であるにも拘らず、自分の意志を貫いて、大祭司の許に駆け込む。
誰も彼を抑え込むことなど出来ない程の強さ ! ところが何ということでしょう !? 3節 「道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らし」、そのサウロが、捕らえられることに !!

主は、どのようにしてサウロを捕らえたのか ?

① 4節 「彼は地に倒れて、『 ・・・なぜわたしを迫害するのか 』 という声を聞いた。」と 《 サウロの重大な誤算を指摘する 》 ことによって。

サウロが直接迫害していたのは、※ 2節 「この道の者」と言われているキリスト者・・・教会を、である。※ 「道」については、16章17節 「救いの道」、18章25節 「主の道」、同 26節には、「神の道」とある。パリサイ人も又 ※ マルコの福音書 12章14節 「真理に基づいて神の道を教えておられる」と言っているが、人として従うべき 《 生活の在り方としての 》 道を意味して用いられている。即ち、キリストに従う者たちへの迫害である。
主は先ず、サウロの犯している重大な過ちに言及された。
サウロが回心して後、彼自らが迫害を受ける身になって、22章3節 「神に対して熱心な者でした。」と告白しているが、その時の生活振りを、主はご存じであられてのこと。しかしユダヤ教徒として神に仕えるその熱心は的を完全に外し、神に敵対する者となっているとの指摘である。実に、彼の指導者ガマリエルの懸念が的中。主のこの指摘は、サウロにとってどんなに恐ろしく衝撃的な言葉であったかは、9章11節 「彼は祈っています。」に明白であり、彼は挫折を恐怖の中で味わったのだ。
26章9節 「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えて」したことが、そうではないと知った時の恐怖である。その時の彼の恐怖の有様は、主の声を聞いた時、9章5節 「主よ。あなたはどなたですか」と尋ねていることで分かる。「サウロ」と呼ばれた方が、どなたであるのかを知っての「主」ではなく、畏怖に打たれて、丁寧に敬意を込めて恐る恐る口にした言葉である。

② 26章14節 「・・・なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」とのサウロへの労( いたわ )りによって。

主は教会が味わっている痛みをご自身の痛みとして感じて下さるお方であると共に、純粋に、迫害者自身が迫害することによって被る災いを思い遣って、思い留まらせようとされた。サウロの永遠的損失を数えられての忠告 !!

③ 15節 「あの人はわたしの名を・・・運ぶ、わたしの選びの器です。」との使命の付与によって。

後パウロは、「天からの啓示にそむかず、26章19節」と言っているが、献身の生涯を貫かせた主のおことばであった。


※ ステパノの最期は、迫害者サウロにとっても、心の琴線に触れる出来事となっていたに違いない。ステパノの最期の祈り【7章60節】は、サウロが挫折を味わったそこに、実りを見ることになったのだ ! 何という教会の勝利 !?

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