使徒の働き6章8節~15節、7章51節~53節
先週は、7節 「こうして神のことばは、ますます広まって行き」と節目ごとに記録されているこの言葉に注目して、逞( たくま )しく前進する初代教会の在り方に学んだ。特に「多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」との奇蹟的な動きがあったが、こうした結果を生んだ教会のしたこととは ?
ⅰ 2節 「十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『 私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません・・・ 』 」と、教会は何を優先にして行くべきなのかを明確にしたこと。
教会の生命線は「神のことば」が語られることにあるのであって、仮にそれが慈善行為であったとしても、それに譲ることがあってはならないという姿勢を明確にした。但し、教会内での実践的善行を蔑( ないがし )ろにすべきではないとして、使徒たちがして来た「食物の分配と管理」については、協力者を得て継続して行くべきこととした。
ⅱ 3節 「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることに・・・」/5節 「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ・・・」と、協力者七人を選出したこと。
直ちに選びに与るに相応しい「評判の良い人」とは 《 保証済みの性格 》 で、「主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大・・・ コリント人への手紙 第二 8章18節~21節」を意味する。
※ 露呈される教会の弱さは、いつでも、聖霊によって強くされて行く機会となっているのを見て励まされたい、と。
今朝は、十二使徒を補佐する為に選出された器ステパノに注目致しましょう。選出された人々は皆、選びの条件として、3節 「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」であることが求められていた。人間的標準で認められる何かを持っていなければならなかったのではなく、聖霊に満たされることによって備えられた 《 神と人との前における誠実さ 》 が条件であると学んだ !
ステパノは、その筆頭に選ばれた器であった。
この姿勢は、今後も 『 使徒の働き 』 を学んでいく上での重要な点であるが、今朝ステパノに注目するに当たって、聖霊がこのステパノをどのように導かれたのかに焦点を合わせて学びたい。
特にここでは更に言葉を重ねて、8節 「ステパノは恵みと力とに満ち」とか、10節 「彼が知恵と御霊によって語っていたので」と、強調されているからである。
① 聖霊はステパノに 《 同族への宣教の重荷を与えて 》 遣わされた。
先週は、ステパノがギリシヤ名を持つヘレニストであると学んだ。
ヘレニストとは、1節 「ギリシヤ語を使うユダヤ人」で、ローマ帝国内に散在してギリシヤ文化をしっかり吸収して育った人々。ユダヤで生まれ育ち、( 母国語として )ヘブル語を話すユダヤ人とは区別される、少数派のキリスト者だったと。
このヘレニストが配給のことで呟いた時、使徒を補佐する七人を選出しているが、彼らは皆、ヘレニストであった。そこに、公平さを期して実務を行う教会の麗しい姿を見た。
ステパノは教会の実務を使徒に代わって行いながら、「人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた」のである( 8節 )。
この「人々の間で」というのは、9節に、「リベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。」とあるので、ステパノとは同族の人々ということになる。
リベルテンとは、自由を得た者を意味し、解放されたユダヤ人奴隷のことで、B.C.63年、ローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服した際、ローマに連行され、奴隷として売られた人々のこと。彼らのある者は解放されてユダヤに帰り、「リベルテンの会堂」とあるように、エルサレムで自分たちのユダヤ教の会堂を建てていた。
聖霊は、ステパノを同胞である身近な人々に遣わしておられる。
私たちも又、伝道を考える時、家族、同級生、職場の人々、いつも私たちの生活の一挙手一投足の全てを見て知る人々への重荷の如何が問われている。
② ステパノを彼の同族に遣わした聖霊は、その働きを祝福された。
その祝福とは、初代教会の宣教に画期的な突破口を開く契機とされたというものである。
実際ステパノが、彼らの間で直面しなければならなかったことは、8節~9節 「・・・を行っていた。ところが・・・立ち上がって、ステパノと議論した。」と、歓迎ではなく反感だった。
主に誠実を尽くして信仰生活を送る時、摩擦は避けられない。主のおことば 《 ヨハネの福音書 15章18節~25節 ⇒ この世と信仰者との関係について 》 留意すべきである。
ところが、ここには世を恐れる余り、中途半端な生き方も又あるとの警告が示唆されている。その場合、摩擦からは逃れることができる。しかし、主が期待しておられる結実とは裏腹な悲しい背教があり、責任が問われる問題である。
マタイの福音書 10章34節~39節 「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」とは、余りにも厳粛な主のおことばではないだろうか !
ステパノによる身近な隣人への誠実な伝道は、10節 「それに対抗」しようとする人々によって迫害を余儀なくされ、遂には、11節~14節 「議会」に連行されるところにまで発展するが、実はこの機会こそ、エルサレムから始まった福音が 《 エルサレムを出て、地の果てに向かって 》 躍動し始めることになるとは !
聖霊はその議会でステパノを輝かせ【15節】、彼らの訴え【13節 「この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。」】に対して理路整然とした弁明【7章の説教】をさせ、遂には、7章51節~53節で、大胆に彼らの罪を糾弾させた。
そして聖霊は、このステパノの存在を、後のパウロ、迫害者サウロの目に焼き付けさせたのだ。
※ “ 殉教者は教会の種 ” とは至言 ! 実にこのステパノをその第一人者とされた聖霊に、私たちも委ねて従いたい。
先週は、7節 「こうして神のことばは、ますます広まって行き」と節目ごとに記録されているこの言葉に注目して、逞( たくま )しく前進する初代教会の在り方に学んだ。特に「多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」との奇蹟的な動きがあったが、こうした結果を生んだ教会のしたこととは ?
ⅰ 2節 「十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『 私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません・・・ 』 」と、教会は何を優先にして行くべきなのかを明確にしたこと。
教会の生命線は「神のことば」が語られることにあるのであって、仮にそれが慈善行為であったとしても、それに譲ることがあってはならないという姿勢を明確にした。但し、教会内での実践的善行を蔑( ないがし )ろにすべきではないとして、使徒たちがして来た「食物の分配と管理」については、協力者を得て継続して行くべきこととした。
ⅱ 3節 「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることに・・・」/5節 「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ・・・」と、協力者七人を選出したこと。
直ちに選びに与るに相応しい「評判の良い人」とは 《 保証済みの性格 》 で、「主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大・・・ コリント人への手紙 第二 8章18節~21節」を意味する。
※ 露呈される教会の弱さは、いつでも、聖霊によって強くされて行く機会となっているのを見て励まされたい、と。
今朝は、十二使徒を補佐する為に選出された器ステパノに注目致しましょう。選出された人々は皆、選びの条件として、3節 「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」であることが求められていた。人間的標準で認められる何かを持っていなければならなかったのではなく、聖霊に満たされることによって備えられた 《 神と人との前における誠実さ 》 が条件であると学んだ !
ステパノは、その筆頭に選ばれた器であった。
この姿勢は、今後も 『 使徒の働き 』 を学んでいく上での重要な点であるが、今朝ステパノに注目するに当たって、聖霊がこのステパノをどのように導かれたのかに焦点を合わせて学びたい。
特にここでは更に言葉を重ねて、8節 「ステパノは恵みと力とに満ち」とか、10節 「彼が知恵と御霊によって語っていたので」と、強調されているからである。
① 聖霊はステパノに 《 同族への宣教の重荷を与えて 》 遣わされた。
先週は、ステパノがギリシヤ名を持つヘレニストであると学んだ。
ヘレニストとは、1節 「ギリシヤ語を使うユダヤ人」で、ローマ帝国内に散在してギリシヤ文化をしっかり吸収して育った人々。ユダヤで生まれ育ち、( 母国語として )ヘブル語を話すユダヤ人とは区別される、少数派のキリスト者だったと。
このヘレニストが配給のことで呟いた時、使徒を補佐する七人を選出しているが、彼らは皆、ヘレニストであった。そこに、公平さを期して実務を行う教会の麗しい姿を見た。
ステパノは教会の実務を使徒に代わって行いながら、「人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた」のである( 8節 )。
この「人々の間で」というのは、9節に、「リベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。」とあるので、ステパノとは同族の人々ということになる。
リベルテンとは、自由を得た者を意味し、解放されたユダヤ人奴隷のことで、B.C.63年、ローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服した際、ローマに連行され、奴隷として売られた人々のこと。彼らのある者は解放されてユダヤに帰り、「リベルテンの会堂」とあるように、エルサレムで自分たちのユダヤ教の会堂を建てていた。
聖霊は、ステパノを同胞である身近な人々に遣わしておられる。
私たちも又、伝道を考える時、家族、同級生、職場の人々、いつも私たちの生活の一挙手一投足の全てを見て知る人々への重荷の如何が問われている。
② ステパノを彼の同族に遣わした聖霊は、その働きを祝福された。
その祝福とは、初代教会の宣教に画期的な突破口を開く契機とされたというものである。
実際ステパノが、彼らの間で直面しなければならなかったことは、8節~9節 「・・・を行っていた。ところが・・・立ち上がって、ステパノと議論した。」と、歓迎ではなく反感だった。
主に誠実を尽くして信仰生活を送る時、摩擦は避けられない。主のおことば 《 ヨハネの福音書 15章18節~25節 ⇒ この世と信仰者との関係について 》 留意すべきである。
ところが、ここには世を恐れる余り、中途半端な生き方も又あるとの警告が示唆されている。その場合、摩擦からは逃れることができる。しかし、主が期待しておられる結実とは裏腹な悲しい背教があり、責任が問われる問題である。
マタイの福音書 10章34節~39節 「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」とは、余りにも厳粛な主のおことばではないだろうか !
ステパノによる身近な隣人への誠実な伝道は、10節 「それに対抗」しようとする人々によって迫害を余儀なくされ、遂には、11節~14節 「議会」に連行されるところにまで発展するが、実はこの機会こそ、エルサレムから始まった福音が 《 エルサレムを出て、地の果てに向かって 》 躍動し始めることになるとは !
聖霊はその議会でステパノを輝かせ【15節】、彼らの訴え【13節 「この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。」】に対して理路整然とした弁明【7章の説教】をさせ、遂には、7章51節~53節で、大胆に彼らの罪を糾弾させた。
そして聖霊は、このステパノの存在を、後のパウロ、迫害者サウロの目に焼き付けさせたのだ。
※ “ 殉教者は教会の種 ” とは至言 ! 実にこのステパノをその第一人者とされた聖霊に、私たちも委ねて従いたい。
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