聖日礼拝 『使徒の働き』 より 14


使徒の働き6章1節~7節

先週は、再度議会の妬みを買って受けた迫害によっても、宣教は阻止されずに進められて行った、その要因に留意した。

ⅰ 先ず 《 二つの「ところが」に 》 神の直接的干渉を見た。
主の使いの派遣 : 19節~20節 「ところが」と、今も現実的な出来事として、主の御名の必要に応じて起こっている。/律法学者ガマリエルの起用 : 35節~39節 「ところが」と、もし彼の冷静沈着な発言がなかったならば、33節 「怒り狂」った状態の議会は、使徒たちを処刑したのではないか !!
神を恐れ、神の摂理に委ねる信仰的な彼の発言は、議会を説得し、従わせたのだ。この律法学者ガマリエルが、パウロの指導者だった( 22章3節 )ことは興味深い。

ⅱ と共に、従うことだけに徹する使徒たちの従順に。
21節 「彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始め」 ⇒ 25節 「大変です・・・」と言わせた従順/28節 「何ということだ・・・」と憤る議会に対して、29節~32節 「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです・・・」と臆することなく弁明し、議会をして、※ 33節 「怒り狂い、使徒たちを殺そうと計」らせた彼らの従順/41節 「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」従順/42節 「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」従順である。

※ これは、私たちへの挑戦ではないか ! 主の使徒たちへの真実を確信し、使徒たちの主への従順に倣いたい ! と。


今朝は7節 「こうして神のことばは、ますます広まって行き」と、節目ごとに記録されているこの言葉に注目して、逞( たくま )しく前進する初代教会の働きに学びたい。
もう既に、しるしをつけておられるかと思いますが、確認したい。ある聖書学者は、「こうして・・・」が、この書に回出て来ることをもって 《 エルサレムから始まった福音が、その当時の地の果てであるローマに至った年月を割り出し 》 6 x 5年=30年としている。この後には、9章31節/12章24節/16章5節/19章20節/28章30節と、計回である。
この計算からすると、ペンテコステの日に誕生した教会は、5年の経過を見たことになる。初めに3000人が弟子に加わり、迫害によって5000人までになり、更に、5章14節では「主を信じる者は男も女もますますふえていった。」とある。
初めての「こうして」は、2章で起こった聖霊の注ぎから始まった、ここ6章6節までの教会の働き全体を受けている。
即ち、教会に起こった迫害を喜んだこと、アナ二ヤとサッピラによる虚偽事件が聖霊の圧倒的な干渉をもって処理されたこと、そして、今朝お読みした1節~6節を受けてのこと。
注目すべきは、「こうして」と生み出されているその内容であって、弟子たちによる奇蹟の中で最大の奇蹟と言われている、7節c 「多くの祭司たちが次々に信仰にはいった」ことである。実際、この祭司たちこそ、キリストを目の敵にした人々の大半を占めていたことを考える時、実に驚くべき成果なのだ。当時、二万人の祭司がいたと言われているが、その中から「多くの祭司たちが次々に・・・」は聖霊の働きの凄まじさを物語っている。

「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。」という現象をもたらした、1節~6節の記事に注目したい。
この記事によると、1節 「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」を発端に、使徒を補佐する人々の選出がなされたということである。
「ギリシヤ語を使うユダヤ人」とは、ローマ帝国内に散在していたギリシヤ文化を吸収して生活していたユダヤ人のことで、ヘレニストと呼ばれる人々のこと。「ヘブル語を使うユダヤ人」とは、教会の大半を占めるパレスチナ在住のユダヤ人。何れも、教会では、やもめのお世話をしていた( テモテへの手紙 第一 5章3節、9節、10節、16節 )。ここに、悪意 ? 意図的 ? なことはなく、手が回らなくなったという必然的問題として起こったと考えられる。

教会は行き詰らなかった。教会は・・・

① 2節 「十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『 私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません・・・ 』 」と、教会は何を優先にして行くべきなのかを明確にする機会とした。

これまで、弟子となった者たちが携えて来たささげ物は皆、使徒たちの足もとに置かれていた。ところが教会が大きくなって行くに従って、使徒たちだけでは管理し切れなくなったということが明らかにされたのだ。
教会の生命線は「神のことば」が語られることにあるのであって、仮にそれが慈善行為であったとしても、それに譲ることがあってはならないという姿勢を明確にした。
但し、教会内での実践的善行を蔑( ないがし )ろにすべきではないとして、使徒たちがして来た「食物の分配と管理」については、協力者を得て継続して行くべきこととした。このことは、如何なる善行も「神のことば」抜きでは存在しないし、「神のことば」があってのみ善行に意味があるとの提示である。

② 3節 「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることに・・・」/5節 「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ・・・」と、協力者七人を選出した。

ここに、教会が聖霊に導かれている幸いな姿を見る。
必要とあらば、直ちに選びに与るに相応しい聖霊の器を持っていたということ。「評判の良い人」とは 《 保証済みの性格 》 で、「主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大・・・ コリント人への手紙 第二 8章18節~21節」を意味する。又、選ばれた七人が皆、ギリシヤ名を持つ人々であった。これは苦情を申し立てたヘレニストからの選出であったことを意味するので、教会の麗しい姿を醸し出しているではないか !


※ 露呈される教会の弱さは、いつでも、聖霊によって強くされて行く機会となっているのを見て、励まされたい。

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