ヨハネの福音書5章30節
私たちの求めて止まない日々の願いは 《 主を知ること、主に似せられること 》 にあるというのが、お互い共通の思いではないでしょうか。年頭に当たってこの一事を再確認して、新年の歩みに備えましょう。
① 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。」と語られる主のお言葉の意味を考えたい。
主の「できません」とは、あくまでも自主的な選択による意思表示なのだ。パウロがピリピ人への手紙 2章6節~7節で、「キリストは、神が神であられるための属性( 神の存在に固有の性質 )をすべて保有しておられる神ご自身であられますが、神と等しい在り方を固守しておきたいとはお思いになられないで、かえってご自分をむなしくして( そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて )しもべの姿をとられ、人間としてお生まれになりました。」と語った主のご生涯について、主がご自身のお言葉をもって証言されたのが、この聖句。
ゲッセマネの園で主は、ペテロに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 マタイの福音書 26章52節~53節」と仰った。ここにも、「できません」と仰る主のお心の説明がある。
主は 《 出来ないのではない、そうしようとは思われないという 》 自己放棄の告白なのだ。ペテロは、主をそのようなお方として理解出来なかった為に、彼は彼らしく剣を手にした。しかし主はむしろ、彼を窘( たしな )められたのだ。
私たちは、このように仰る主に似ているだろうか ?
主が放棄された特権は、神ご自身であるにも拘らず、神固有の性質( 霊性、永遠性、遍在性、主権的意思 )であった。「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。コリント人への手紙 第二 8章9節」と、富んでおられた主が、【棄てて】貧しくなられた。しかし、私たちは「貧し」かったのだ。この貧しさとは、何も持っていないという貧しさではなく、持っている物の貧しさである。
エペソ人への手紙 2章1節~3節 「・・・死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」という貧しさ。
神を離れた時から、神のかたちを失い、サタンの支配下に身を任せていた極貧状態にある貧しさである。
ですから、私たちに求められている放棄すべき物とは、そうした生き方によって形成されて来た自己の放棄である。
A・W・トウザーは、自己放棄について 《 自己愛、自信、自己義、自惚れ、自己拡大、自己憐憫 》 と説明し、 “ これらは、全能の神の禁制品【禁断の実】であり、これらのものが心にあるならば、神はその力強い御霊を送って、ご自分の所有とすることができない ” と言っている。私たちも又、主が仰るように「自分からは何事も行うことができません。」と言えるのでしょうか ?
② 主に従って、「自分からは何事も行うことができません。」と言えるには、私たちはどうしたら良いのか ?
a. 消極的面 : 自己放棄の実践。
難しいことではない。様々な局面で示される一つ一つの自己中心的性質をその都度どのように扱うのかが、鍵 !!
喜ぶのか、忌まわしく思い嫌悪するのか ? そのままで良いとして心の内に仕舞い込んで置くのか、その傾向性に悲しみ、取り除いて欲しいと願うのか ? その都度、どちらを選択するのか ? 主が「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 マタイの福音書 5章4節」と勧めておられるところに従うことだけ。そこに備えられている 《 十字架による赦しと清め 》 によって、自己放棄は可能とされる。
b. 積極的面 : 「ただ聞くとおりに」との主との交わり。
主は良く聖父と交わり、聖父との時間を死守された。
「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ベタニヤのマリヤは、主をもてなすことに非協力的だとしてマルタから咎( とが )められたが、主から「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。ルカの福音書 10章42節」と弁護されている。
しなければならないことが多くある中で優先順位を定め、聖書を読むということではあるが、聖書を通して主と交わるという意識で、聖前に出るお互いでありたい。
何が ? 私たちをそのような営みへと導くのだろうか ?
③ 主をして、「自分からは何事も行うことができません。」と言わせた 《 その動機 》 にその答えを。
「わたし自身の望むことを求めず【詳訳 : 自分の意思を考慮せず、自分自身目的、意図に沿うことをしたいと願わず】、わたしを遣わした方のみこころを求める【お喜びになることだけをしようと願う】からです。」と、ここにある。
聖父のみこころとは ? 主に託されていたのは 《 人類の贖いを成し遂げること 》 だった。「・・・このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。12章27節」と祈られた。又、ゲッセマネでは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 ルカの福音書 22章42節」と。
極限状態にあられた主は、「わが神、わが神。どうして・・・」と、聖父への愛に疑念を抱かせようとするサタンからの執拗な誘惑に襲われつつも( マタ 27・46 )、聖父の愛を信頼する愛を貫き、遂には、「父よ。わが霊を御手に委ねます。」と愛の告白をもって息を引き取られた( ルカ 23・46 )。主がご自身を完全にお棄てになり、贖いの生涯を全うされたのは、人類の救いを願われた聖父への愛に他ならない。私たちは、ルカの福音書 7章47節 《 多く罪赦された自覚こそが、主を多く愛する 》 とのおことばに留意したい。
※ 贖いは主の自己放棄によった。宣教は、置かれたところでの自己放棄による。私たちもこの一年、自己放棄させる主への愛に動かされて、主と隣人とに仕える者でありたい。
私たちの求めて止まない日々の願いは 《 主を知ること、主に似せられること 》 にあるというのが、お互い共通の思いではないでしょうか。年頭に当たってこの一事を再確認して、新年の歩みに備えましょう。
① 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。」と語られる主のお言葉の意味を考えたい。
主の「できません」とは、あくまでも自主的な選択による意思表示なのだ。パウロがピリピ人への手紙 2章6節~7節で、「キリストは、神が神であられるための属性( 神の存在に固有の性質 )をすべて保有しておられる神ご自身であられますが、神と等しい在り方を固守しておきたいとはお思いになられないで、かえってご自分をむなしくして( そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて )しもべの姿をとられ、人間としてお生まれになりました。」と語った主のご生涯について、主がご自身のお言葉をもって証言されたのが、この聖句。
ゲッセマネの園で主は、ペテロに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 マタイの福音書 26章52節~53節」と仰った。ここにも、「できません」と仰る主のお心の説明がある。
主は 《 出来ないのではない、そうしようとは思われないという 》 自己放棄の告白なのだ。ペテロは、主をそのようなお方として理解出来なかった為に、彼は彼らしく剣を手にした。しかし主はむしろ、彼を窘( たしな )められたのだ。
私たちは、このように仰る主に似ているだろうか ?
主が放棄された特権は、神ご自身であるにも拘らず、神固有の性質( 霊性、永遠性、遍在性、主権的意思 )であった。「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。コリント人への手紙 第二 8章9節」と、富んでおられた主が、【棄てて】貧しくなられた。しかし、私たちは「貧し」かったのだ。この貧しさとは、何も持っていないという貧しさではなく、持っている物の貧しさである。
エペソ人への手紙 2章1節~3節 「・・・死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」という貧しさ。
神を離れた時から、神のかたちを失い、サタンの支配下に身を任せていた極貧状態にある貧しさである。
ですから、私たちに求められている放棄すべき物とは、そうした生き方によって形成されて来た自己の放棄である。
A・W・トウザーは、自己放棄について 《 自己愛、自信、自己義、自惚れ、自己拡大、自己憐憫 》 と説明し、 “ これらは、全能の神の禁制品【禁断の実】であり、これらのものが心にあるならば、神はその力強い御霊を送って、ご自分の所有とすることができない ” と言っている。私たちも又、主が仰るように「自分からは何事も行うことができません。」と言えるのでしょうか ?
② 主に従って、「自分からは何事も行うことができません。」と言えるには、私たちはどうしたら良いのか ?
a. 消極的面 : 自己放棄の実践。
難しいことではない。様々な局面で示される一つ一つの自己中心的性質をその都度どのように扱うのかが、鍵 !!
喜ぶのか、忌まわしく思い嫌悪するのか ? そのままで良いとして心の内に仕舞い込んで置くのか、その傾向性に悲しみ、取り除いて欲しいと願うのか ? その都度、どちらを選択するのか ? 主が「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 マタイの福音書 5章4節」と勧めておられるところに従うことだけ。そこに備えられている 《 十字架による赦しと清め 》 によって、自己放棄は可能とされる。
b. 積極的面 : 「ただ聞くとおりに」との主との交わり。
主は良く聖父と交わり、聖父との時間を死守された。
「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ベタニヤのマリヤは、主をもてなすことに非協力的だとしてマルタから咎( とが )められたが、主から「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。ルカの福音書 10章42節」と弁護されている。
しなければならないことが多くある中で優先順位を定め、聖書を読むということではあるが、聖書を通して主と交わるという意識で、聖前に出るお互いでありたい。
何が ? 私たちをそのような営みへと導くのだろうか ?
③ 主をして、「自分からは何事も行うことができません。」と言わせた 《 その動機 》 にその答えを。
「わたし自身の望むことを求めず【詳訳 : 自分の意思を考慮せず、自分自身目的、意図に沿うことをしたいと願わず】、わたしを遣わした方のみこころを求める【お喜びになることだけをしようと願う】からです。」と、ここにある。
聖父のみこころとは ? 主に託されていたのは 《 人類の贖いを成し遂げること 》 だった。「・・・このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。12章27節」と祈られた。又、ゲッセマネでは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 ルカの福音書 22章42節」と。
極限状態にあられた主は、「わが神、わが神。どうして・・・」と、聖父への愛に疑念を抱かせようとするサタンからの執拗な誘惑に襲われつつも( マタ 27・46 )、聖父の愛を信頼する愛を貫き、遂には、「父よ。わが霊を御手に委ねます。」と愛の告白をもって息を引き取られた( ルカ 23・46 )。主がご自身を完全にお棄てになり、贖いの生涯を全うされたのは、人類の救いを願われた聖父への愛に他ならない。私たちは、ルカの福音書 7章47節 《 多く罪赦された自覚こそが、主を多く愛する 》 とのおことばに留意したい。
※ 贖いは主の自己放棄によった。宣教は、置かれたところでの自己放棄による。私たちもこの一年、自己放棄させる主への愛に動かされて、主と隣人とに仕える者でありたい。
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