クリスマス記念礼拝


コリント人への手紙 第二 8章9節

今朝の思い巡らしの為に、三つのことを考えてみたい。

① 「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられ」たのが、クリスマスの出来事だったこと。

主が「富んでおられた」の解説は何と言っても、ピリピ人への手紙 2章6節a 詳訳 「キリストは、神と本質的に一つ【神が神であられるための属性( 特質、固有の性質 )をすべて保有しておられる】神のかたち【神ご自身】であられ」るお方ということ。
このお方が、「あなたがたのために貧しくなられ」たのだ。
即ち、同じくピリピ人への手紙より、2章6節b 詳訳 「神と等しいということ【神の在り方】を固守しておきたい〈 保留しなければならない 〉とはお思いにならないで」/同 7節 詳訳 「かえってご自分をむなしくして【そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて】しもべの姿を取られ、人間の様〈 人間としてお生まれ 〉になりました」/同 8節 詳訳 「彼は、人間の姿でお現われになった後、更にご自身を低くして【謙って】、死に至るまで、しかもあの十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました」。
即ち、人として生を受け、罪人が犯した罪の報いとして受けなければならない死の報酬を、罪人の身代わりとなって引き受ける為に、十字架刑による死にまで従われたというのである。このご生涯に 《 固守せずに捨てられた神の在り方 》 を見る。 

《 神の属性 ― 神の本質・存在に固有の性質 》 プリント参照
・ 神の霊性 ⇒ 可見的存在、即ち肉体を取られ、その為の辛苦を味わうお方となられた。イザヤ書 53章は、主のご生涯を預言したものであるが、特に2節~7節に顕著。※ 3節 「悲しみの人で病を知っていた・・・」と。
・ 神の永遠性 ⇒ その存在には始まりもなく、終わりもないお方が、限られた時間の中で過すことに甘んじられた。
・ 神の偏在性 ⇒ 家畜小屋の飼葉桶という限られた空間に嬰児として誕生し、そのご奉仕も限られた範囲内でのこと。
・ 神の主権的属性 ⇒ 万物の創造者がご自身の主権を聖父に明け渡し、聖父のご意志に従うことをもって生きるお方となられた。聖父のご意志から離れては、何事も行われないお方。ヨハネの福音書 5章19節~30節 「自分からは何事も・・・」と。

② この目的は、唯一つ、「あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるため」だったこと。

私たちが「富む者となる」とは ? 主は ※ ヨハネの福音書10章10節で、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と仰っておられますが、この 《 いのちを豊かに持つ 》 ようになることである。
実に私たちは、主のこのクリスマスの事実がなかったならば、いのちを持たない、失われた者だったのだ。もう一度、イザヤ書 53章を見ると、5節d 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあるようにである。二重のいのち【いやし】、即ち 《 罪の赦しと罪性の清め 》 といういのち【いやし】なのだ !
私たちが今、この二重のいのちに与っているのは、唯 ※ 「主イエス・キリストの恵み」によるもの ! 私たちの側には何一つ、受けるに値するものがなかったことを意味する。
ローマ人への手紙 3章23節~24節 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに【無代価で】義と認められるのです。」とあるように、「ただ、神の恵み」による。「恵み」の定義は、人間の功績によらない神の愛顧と憐れみであり、一方的なご好意としての賜物である。

③ 主のこの事実は私たちへのチャレンジである。

実はこの9節の冒頭は、詳訳では「なぜなら、あなたがたは次第に、私たちの主イエス・キリストの恵みを、親しく知るようになって来ているからです」となっている。
この「なぜなら」という接続語は、※ 8章1節から語られている一つの行為が、主イエスの「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられ」たその事実を知ったことから出ていることを示している。その行為とは ?
1節 「・・・神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」から、2節 「・・・極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となった」と、マケドニヤ教会によって実践されている 《 6節~7節 「恵みのわざ」 》 のこと。
パウロは彼らの行為を評価して、4節 「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」/5節 「私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」と伝えている。

聖霊はここで 《 主によって私たちにもたらされた恵みは、必ずや、その恵みを経験した人をして、自分だけの為に生きることを止めさせる 》 と語っておられるのだ。
パウロは、7節 「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」と言い、8節 「こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。」と指導している。
コリント人への手紙 第二 5章14節~15節 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは・・・もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」。
ヨハネの手紙 第一 3章16節~18節 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。・・・ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」。

※ 主の愛に与った恵みに相応しく、そこに生かされたい ♪

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