聖日礼拝 『使徒の働き』 より 12


使徒の働き4章32節~5章11節

先週は、法廷から解放された二人が、先ず仲間のところへ行って報告したことから、互いに重荷を分かち合い、祈り合う場所を持っていることの幸いを考えさせて頂き、それらの報告を受けた教会が、迫害を悲劇とは見做さずにむしろ宣教の好機として祈った信仰に学んだ。
その信仰の鍵は、迫害が教会に対してではなく、主ご自身へのものであるとの理解にあったことを学びつつ・・・

ⅰ 26節 「主とキリストに反抗して」企てられる策略のすべてが、どれ程巧みで凶暴性に富んでいたとしても、「むなしいつぶやき」でしかないとした信仰。
現に、27節~28節 「ヘロデとポンテオ・ピラト」の主に対する悪巧みは、手の込んだものであったのかも知れないが、唯、28節の如く、贖いの成就に用いられたに過ぎなかった。それ故に、彼らの謀るすべては「むなしいこと」なのだと。

ⅱ 29節~30節 「・・・イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」に見られる信仰。
彼らは敵対者の鎮圧を求めずに、このような状況下にあっても、主の働きが中断されずに継続出来るようにと願った。迫害は必然的なものであって、使徒たちの共通の理解が、ローマ人への手紙 8章37節 「・・・これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」にあったからであると。

※ その結果、31節 「彼らがこう祈ると、・・・一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」とあり、続く33節では、「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」とは !


今朝は、そうした力強い前進を裏付ける教会の内面に注目して、メッセージとしたい。
弟子の数が、五千人を超えるまでに膨れ上がって行くエルサレム教会には、32節 「心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」という信仰的実践があった。このエルサレム教会の指導者として名を連ねることになるヤコブが、国外に散在するキリスト者にも、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と指導しているが、この信仰の実践があった( ヤコブ書 2章14節~17節 )。
実際、34節~35節 「・・・地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられた」ということ。36節~37節には、後、迫害者サウロを恐れていた教会に、彼の回心を信じて引き合わせた人物バルナバの行為が続くが、金銭をどう扱うかは、極めて現実的な問題であって、私たちの信仰を試すものである。
マラキ書 3章8節~10節、「人は神のものを盗むことができようか。ところが・・・」に始まる主の民への問い掛けは、実に深刻な指摘である。ここで主は、※ 8節 「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。」と嘯( うそぶ )く民に、ご自身への侮りを糾弾しておられるが、このことは、新約的には ※ コリント人への手紙 第二 9章で詳細に扱われている。この箇所を、私たちはどのように理解しているだろうか。パウロは、献金に関して扱われる時の肉的性質を洞察している。5節 「惜しみながらするのではなく」、7節 「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」という言葉は、得てして、金銭を扱う時に見え隠れする肉の性質の指摘である。
「その持ち物を自分のものと言わ」なかったという弟子たちに、主に明け渡された霊的恵みを見る。取りも直さず、聖霊による肉的性質の清めの恵みである。ある意味で、自らの霊的状態を知るバロメーターともなる性質の問題なのだ。私たちもこの点において、自由な者でありたい。

さて、5章の 《 アナニヤ & サッピラ事件 》 は、このような恵まれた教会に起こったのであるが、ここに私たちは何を学ぶべき ?

① どんなに恵まれた教会であっても、罪人の群れである限り、幾らでも、いつでも、何らかの形で、肉的な何かが入る可能性の中に置かれているとの警鐘を。

この 《 罪人の群れである限り 》 と言ったのは、罪人だから仕方がないの意味ではなく、生来の肉は限りなく清められ続けて頂く必要があるとの意味でのこと。正に、アナニヤとサッピラに見たもの、それは、5章2節 「使徒たちの足もとに置いた」捧げ物の動機の問題であった。ペテロは、「サタンに心を奪われ、聖霊を欺い」た点を指摘しているが( 3節~4節 )、問題は、3節 「地所の代金の一部を自分のために残して」おきながら、8節の「この値段で売ったのですか・・・」に「はい。」と答えた、その虚栄心による虚偽。4節 「自由になった( ※ 権威のうちにある )」のに何故 ? 敢えてそれを全部と言う必要があったのか !?

② 教会とは、そうした肉の性質を聖霊によって容赦なく暴き、厳格に扱い、正す場所であるとの通告を。

3節~4節 「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか・・・。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と、厳粛にも ※ 5節~10節と、裁かれることになった【マタイの福音書 12章31節~32節の主の忠告通りの厳格な扱いである】。彼らの致命傷は、4章36節~37節のバルナバを意識したことによる偽善だったと考えられる。

③ そして、このような恥ずべき肉を厳格に扱う教会には、5節 「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」/11節 「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」との結果が与えられたことから、聖霊の圧倒的な干渉が約束されているとの激励を。

迫害下にある教会にとって痛手となる可能性があり、サタンに付け入るすきを与えかねない出来事だったが、使徒たちの聖霊への従順【ペテロの牧会に認められたもの ⇒ 動機の純潔を指導/外的行為重視ではない】は、むしろ聖霊に働きの為の道を開き、汚点とはならずに前進して行くことになった。


※ 聖霊によって明るみにされる肉的性質を有耶無耶( うやむや )にすることなく、しっかり扱って頂くことによってのみ、真の教会建設、宣教があることを覚え、扱われることを感謝する者でありたい。

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