聖日礼拝 『使徒の働き』 より 11


使徒の働き4章23節~31節

先週は、足のきかない男の癒しの為にペテロとヨハネが捕らえられ、一晩留置されて翌日、エルサレムに召集された最高議会の法廷で、尋問を受けることになった場面に注目致しました。
法廷は、極めて対照的な光景だった。13節 「ペテロとヨハネとの大胆さ」と、彼らに困り果てている議会の ※ 14節 「返すことばもなかった・・・」という惨めな姿。何と、8節 「聖霊に満たされ」た使徒たちにとっては、ルカの福音書 21章12節~15節 「どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」の成就である !

ⅰ 12節 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには・・・どのような名も、人間に与えられていないからです。」と、明確なキリスト信仰の理解を。
使徒たちは、キリストの唯一性を信じる信仰の批判を恐れずに、イエスが主であることを妥協せずに証した。

ⅱ 13節b’ 「・・・ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」と、法廷を黙らせた彼らの生きた証を。
周囲の人々は、事実、二人の内に在って生きておられるイエスを見出さざるを得なくされたのだ。この 《 現実的な証しが脅威 》 となっている。

ⅲ 19節~20節 「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。・・・話さないわけにはいきません。」と、主への恐れの確かさを。
主を恐れる者であると自負するユダヤ教徒の彼らに対しては、主への冒涜、その独善的信仰を糾弾し、信仰とは ? と迫った( 11節 )。

※ 聖霊の満たしは、互いの現実的生活を変えると覚えた。


今朝は、21節 「( ペテロとヨハネの )ふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。」とあるように、議会が、二人を裁判にかけはしたものの打つ手がなく、脅迫を加えるだけで釈放せざるを得なく された時のこと。23節 「釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。」と、それを受けた 《 教会がどうしたのか 》 学びたい。
ここには悲観的な悲愴な顔付きはなく、むしろ、より一層の喜びに満ちた様子が伺える内容であることに感謝したい。
何故ならそれは、日々問題に直面する私たちの在るべき姿に光を与えて、示唆、励ましとなるからである。
その内容を見る前に、先ずは、二人が「仲間のところへ」行ったということ、24節a 「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った・・・」という交わりが教会にあった幸いを認めなければならない。互いに重荷を担い合い、直面している現状を把握し合い、それを愚痴るのではなく、耳にしたその時、直ちに「神に向かい、声を上げて」祈る場として教会が存在していたということである。
その意味においても、週の半ばに備えられている夕拝の存在が、祈りの場所として、群れの意識の中に置かれることを願っている。
祈っている場所があること、祈っている友がいることを覚えて、其々置かれたところから集まって来る場所になったならば、どんなに素晴らしいことでしょうか ! 後の記事ですが、12章でのこと、捕らえられたペテロが釈放されたと「わかった」時、駆け込んだ場所が、やはり祈りの家にであった。
さて、ここで彼らが先ず主を、24節bで 《 創造者として仰ぎつつ、主権者であるとお認めして祈った祈り 》 であるが、 25節~28節で〈 詩篇 2篇1節~2節 〉を引用していることから、この迫害は、私たち教会に対するものと言うより、「主とキリストに反抗して」なされたものとの認識下での祈りだったと覚えたい。

ここに見出される彼らの信仰は・・・

① 26節 「主とキリストに反抗して」企てられる策略のすべてが、どれ程巧みで凶暴性に富んでいたとしても、「むなしいつぶやき」でしかないとの信仰的理解。

27節 「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集ま」ってイエスを殺害した。様々な偽証をもってしてもイエスの死刑執行の決め手となる証拠が得られなかった為、遂にイエスの「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」と仰った言葉を手に、「神をけがす」として激怒し、死刑執行を決定( マタイの福音書 26章64節~66節 )。ここで彼らが払った代価【全精力を結集させての悪巧みとその情熱】は、あらゆる面で最大級のものだっただろう。
しかしそれがどれ程のものであれ、聖霊は、25節e 「むなしいことを計る」とだけ、言われるのだ。使徒たちの祈りの言葉は、引用して祈っている詩篇 2篇2節で中断しているが、続く3節~6節 「天の御座に着いておられる方は笑う・・・」の聖句が意識されていたに違いない。それを、28節 「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったこと」だったに過ぎないと言っていることで明白。
彼らは主を妬んで十字架刑をもって抹殺したが、彼らの意図で十字架刑が成就したのではなく、彼らのするしないとは無関係に、神は粛々とご自身のご計画を行われたのが 《 イエスの死であり、贖いの業 》 だったと。その為、彼らの謀るすべては「むなしいこと」なのだ。

② 29節~30節 「主よ。いま彼らの脅( おびや )かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」との信仰的姿勢。

彼らは敵対者の鎮圧を求めず、むしろ、このような状況下にあっても、主の働きが中断されずに継続出来るようにと願った。脅かしは避けられないもの、必然的なものとの理解に立ち、むしろ福音宣教の機会としようとの積極的な明るい捉え方をしている。使徒たちの共通の理解が、ローマ人への手紙 8章37節 「・・・これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」にあったからである。


※ その結果、31節 「彼らがこう祈ると、・・・一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」とは ! 聖霊の注ぎは、日々更新される。迫害はその勢いを増して行くことになるが、教会はいよいよ力を得て前進して行くことに注目を。

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