聖日礼拝 『使徒の働き』 より 10


使徒の働き4章1節~22節

先週は、生まれたばかりの教会が、エルサレムの町で存在感を現し始めた頃のこと、3章2節 「宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日 『 美しの門 』 という名の宮の門に置いてもらっていた」男が癒される場面に注目した。
このことによって引き起された 《 迫害とその結実 ⇒ 教会【キリスト者】が主の戒めに生きる時、そこに迫害と宣教の結実が・・・ 》 について考え、迫害を余儀なくさせた 《 ペテロに在る聖霊の愛 》 を見た。

ⅰ ペテロは「施しを求めた」男の存在から目を逸らさずに、直ちに ※ 4節 「その男を見つめて、『 私たちを見なさい 』 」と近付き、「施しを求めた」男の究極的な求めが何であるかを知って、大胆に応じた。
礼拝の為にこの門を出入りしていた礼拝者の目には、男の存在は惨めな見世物でしかなかったが、ペテロの目には、主を必要としている者、《 主の求める求道者 》 であった。

ⅱ ペテロはこの奇蹟に驚いた人々に向って、12節 「なぜ・・・驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と正し、16節 「イエスの御名が・・・この人を強くしたのです。」と、力を主に帰した。

ⅲ 17節 「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは・・・無知のためにあのような行いをしたのです。」/18節「しかし、神は・・・」と、福音を語る機会を見逃さずに悔い改めを迫り、救いに導こうと心血を注いだ。

※ 教会が聖霊の愛に満たされる時、そこに求める者が引き寄せられる。同時に、迫害があるとの生活に留意を、と。


今朝は、足のきかない男の癒しに驚いた人々に、ペテロとヨハネが、1節 「話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって」来て、遂に彼らに、3節 「手をかけて捕らえ」られ、一晩留置されて翌日、エルサレムに召集された最高議会の議員たちによる法廷で、尋問を受けることになった場面に注目致します。

ここに、極めて対照的な光景を見ます。それは、13節 「ペテロとヨハネとの大胆さ」と、彼らに困り果てている議会の ※ 14節 「返すことばもなかった・・・」という惨めな姿です。
法廷は、大祭司を頭とし、七十人の議員によって成り立っているエルサレム大議会であるが、全員が召集された。
通常大祭司は一人ですが、ヨハネの福音書 18章13節 「まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったから」とあるように、アンナスは隠居の立場なのに議会に居座り続け、そこで議長として、最高権威を行使していた。かつて、主が捕らえられた時も、主をどのように扱ったら良いのか分からず、最終的には主を義理の息子カヤパに任せた経緯がある( このカヤパは主を死刑にする為に、総督ピラトに引き渡した人物である )。それからどれ程も経過してはいないが、ここでもアンナスは依然として影響力を維持し、自分を支持する祭司の一族をかき集めて、総動員で議会を開いた。
この最高議会では、民事、犯罪、道徳、宗教問題などに及ぶユダヤの法律を取り仕切り、死刑以外の問題では、その権力を無制限に行使していた。ユダヤ社会における錚々( そうそう )たるメンバーであったということだけは間違いないが、ここでは打つ手がなく、唯、脅迫【15節~18節、21節】することで精一杯だった !
その一方、使徒たちにとっては、ルカの福音書 21章12節~15節 「・・・それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」の成就なのだ ! 鍵は何と言っても、彼らの ※ 8節 「聖霊に満たされて」に。

聖霊が使徒たちに与えられたその「ことばと知恵」とは ?

① 12節 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには・・・どのような名も、人間に与えられていないからです。」と、明確なキリスト信仰の理解を。

恐らく、この世の宗教家は異論を唱えるでしょう。
しかこのことで、 “ キリストが唯一の救い主であることは、私たちがキリストのために、キリストになりかわって主張しなければならないことではありません。それはキリストがご自分でなさる主張です ” と明言された、ジョン・T・シーモンズ著 『 新しい朝に 』 の一文を、別紙で紹介致しました。
問題は、現代のキリスト者が、使徒たちのような献身の質 《 キリストの唯一性を信じていることへの批判を恐れず、議論せず、イエスが主であることを妥協せずに証しする 》 をもって信仰生活を送ているか、では ?
“ 初代教会のクリスチャンたちがキリストの唯一性について議論した形跡はありません。彼らはその事実を信じて生き、説教しました ” とある ! それは、罪の解決無しに、救いは有り得ないからである。

② 13節b' 「・・・ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」と、法廷を黙らせた彼らの生きた証を。

この聖句は、何という挑戦を私たちに投げ掛けていることでしょう ! 法廷に立っている二人を見ていた議会は、直接主を見た人々であり、10節 「・・・あなたがたが十字架につけ」とのペテロの指摘通り、主を排斥した人々である。その彼らが、凛とした姿勢で立っている使徒たちの風貌に魅せられ、徐々に、主が弟子たちと共にいた過去を思い起こさせられながら、過去だけのことではない、今は、二人の内に在って生きておられるイエスを見出さざるを得なくされたというのです。更には、14節 「そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」という、現実的な証しが、脅威となっている。
口先だけではない、生きた証しがあるか ? とは、挑戦。

③ 19節~20節 「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。・・・話さないわけにはいきません。」と、主への恐れの確かさを。

議会こそ、自分たちは神に仕えていると自負するユダヤ教徒の集まりである。その彼らに対して、11節 「 『 あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった 』 というのはこの方のことです。」と、主への冒涜、独善的信仰を糾弾し、神を信じるとはこういうことなのだ、との確信を伝えている。


※ 聖霊の満たしは、互いの現実的生活を変えると覚えたい。

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