使徒の働き3章全
先週は、ペテロの説教を聞いて、37節 「心を裂かれ」た人々の「どうしたらよいでしょうか」への答えに注目した。
ⅰ 38節 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」に従うべきこと。
《 悔い改め 》 とは、単なる反省とか後悔のことではない。生き方そのものの方向転換であり、神なき生活を止めて、神と歩みを共にする生活への意識的変換である。
その時に罪の赦しに与り、「賜物としての聖霊を受け」て、聖霊と共に生きる新しい生活に導き入れられるようにと。
ⅱ 41節 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」とあるが、42節~47節 「そして、彼らは・・・」と、ペンテコステのこの日から教会生活が始まった、ここに従うべきこと。
そこで、弟子訓練/霊的励まし合い/礼拝の重視/仕え合う実践/宣教の働きへと、導かれて行った。
主が「・・・もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。 ヨハネの福音書 13章34節~35節」と言われた「愛があ」ったのは、当然。聖霊による愛の実が結ばれていったから。
※ 私たちの教会は、どれだけ初代教会に見られたこのような特色を持つ群れとなっているかを吟味して行きたい、と。教会が互いに愛し合う、その時、教会を通して聖霊が、宣教の結実をもたらされると覚えたい、と。
今朝は、2章47節 「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と、生まれたばかりの教会が、エルサレムの町で存在感を現し始めた頃のこと。3章2節 「宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日 『 美しの門 』 という名の宮の門に置いてもらっていた」男が、ペテロとヨハネに出会ったことによって、奇蹟を経験した出来事に注目したい。何と、7節~8節 「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」というのだ。
9節~11節は 《 この奇蹟を目の当りにした人々の反応 》 であるが、※ 10節 「この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」/11節 「この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。」と、その影響は宮全体に及ぶことになった。
そこで、12節、「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。」と、あのペンテコステの時と同様に、説教を始めたのだ。その説教の中心はやはり、13節~15節 「あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。・・・しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました・・・」という罪の指摘と、主の復活の事実による救いについてであり、悔い改めの勧めである。
その結果、4章1節~4節で取り上げられているのが、 《 教会への初めての迫害が起こったことと、一方教会では「男の数が五千人ほどになった」という宣教の結実 》 である。
この 《 迫害と結実 》 とは、実は、主に対する待遇から今日に至るまでの教会に対する待遇を考える上で、一つの切り離すことの出来ない因果関係にあるもの。
このことについて主が、最後の晩餐の席で、弟子を「わたしはあなたがたを友と呼びました。 15章15節」と慈しみつつ語られたのが 《 迫害は主に付く者である限り避けられないものである 》 ということだった【ヨハネの福音書 15章16節~16章3節】。
迫害は何処に起こるのか ? 迫害の予告を前に、ヨハネの福音書15章17節 「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られたように、教会【キリスト者】がこの戒めに生きる時、そこにである。
先週学んだように、エルサレム教会は、主の言われる実際的な 《 互いに愛し合う 》 群れとなって育って行った。それは単に教会内だけの利己的な性質のものではなく、2章47節 「すべての民に好意を持たれた。」/5章13節 「その人々は彼らを尊敬していた。」とあるように、教会内での愛は、外に光を放ち、その光は外部の人々を照らして行っているのを見る。
3章1節~8節のペテロに注目したい。「美しの門」とは、神殿の東門で、どの門よりも厚い金銀の板がはめ込まれた豪華な真鍮の門。そこに、この門とは全く対照的な存在として「生まれつき足のきかない男」が、「宮にはいる人たちから施しを求めるために」運ばれて来た。この光景は正に、恵まれた教会がどうするのか ? との挑戦であり、聖霊の恵みはペテロをして、この挑戦に応じさせた。ここに当然迫害が。
迫害を余儀なくさせた 《 ペテロに在る聖霊の愛 》 を見たい。
① ペテロは、耳にし、目にした「施しを求めた」男の存在から目を逸らさずに、直ちに ※ 4節 「その男を見つめて、『 私たちを見なさい 』 」と近付き、「施しを求めた」男の究極的な求めが何であるかを知って、大胆に応じた。
どれ程の人々が、礼拝の為にこの門を出入りしていたことだろう。しかし殆( ほとん )どの礼拝者の目には、男の存在は惨めな見世物でしかなかった。しかしペテロの目には、主を必要としている者、失われた 《 主の求める求道者 》 だったのだ。
② ペテロは開口一番、男の変身振りに驚いた人々に向って、12節 「なぜ・・・驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と正し、16節 「このイエスの御名が・・・強くしたのです。」と、力を主に帰した。
いつでも自らを頼みとしていたあのペテロが、完全に自らの空しさを知って、直ちに力を主に結び付けたのだ。
③ 17節 「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは・・・無知のためにあのような行いをしたのです。」と迫り、18節 「しかし、神は・・・」と、福音を語る機会を見逃さずに悔い改めを迫り、救いに導こうと心血を注いだ。
寝ても覚めても、魂の救いに関心があったのだ。
※ 教会が聖霊の愛に満たされる時、そこに求める者が引き寄せられる。同時に、何らかの迫害があるとの生活に留意を。
先週は、ペテロの説教を聞いて、37節 「心を裂かれ」た人々の「どうしたらよいでしょうか」への答えに注目した。
ⅰ 38節 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」に従うべきこと。
《 悔い改め 》 とは、単なる反省とか後悔のことではない。生き方そのものの方向転換であり、神なき生活を止めて、神と歩みを共にする生活への意識的変換である。
その時に罪の赦しに与り、「賜物としての聖霊を受け」て、聖霊と共に生きる新しい生活に導き入れられるようにと。
ⅱ 41節 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」とあるが、42節~47節 「そして、彼らは・・・」と、ペンテコステのこの日から教会生活が始まった、ここに従うべきこと。
そこで、弟子訓練/霊的励まし合い/礼拝の重視/仕え合う実践/宣教の働きへと、導かれて行った。
主が「・・・もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。 ヨハネの福音書 13章34節~35節」と言われた「愛があ」ったのは、当然。聖霊による愛の実が結ばれていったから。
※ 私たちの教会は、どれだけ初代教会に見られたこのような特色を持つ群れとなっているかを吟味して行きたい、と。教会が互いに愛し合う、その時、教会を通して聖霊が、宣教の結実をもたらされると覚えたい、と。
今朝は、2章47節 「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と、生まれたばかりの教会が、エルサレムの町で存在感を現し始めた頃のこと。3章2節 「宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日 『 美しの門 』 という名の宮の門に置いてもらっていた」男が、ペテロとヨハネに出会ったことによって、奇蹟を経験した出来事に注目したい。何と、7節~8節 「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」というのだ。
9節~11節は 《 この奇蹟を目の当りにした人々の反応 》 であるが、※ 10節 「この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」/11節 「この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。」と、その影響は宮全体に及ぶことになった。
そこで、12節、「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。」と、あのペンテコステの時と同様に、説教を始めたのだ。その説教の中心はやはり、13節~15節 「あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。・・・しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました・・・」という罪の指摘と、主の復活の事実による救いについてであり、悔い改めの勧めである。
その結果、4章1節~4節で取り上げられているのが、 《 教会への初めての迫害が起こったことと、一方教会では「男の数が五千人ほどになった」という宣教の結実 》 である。
この 《 迫害と結実 》 とは、実は、主に対する待遇から今日に至るまでの教会に対する待遇を考える上で、一つの切り離すことの出来ない因果関係にあるもの。
このことについて主が、最後の晩餐の席で、弟子を「わたしはあなたがたを友と呼びました。 15章15節」と慈しみつつ語られたのが 《 迫害は主に付く者である限り避けられないものである 》 ということだった【ヨハネの福音書 15章16節~16章3節】。
迫害は何処に起こるのか ? 迫害の予告を前に、ヨハネの福音書15章17節 「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られたように、教会【キリスト者】がこの戒めに生きる時、そこにである。
先週学んだように、エルサレム教会は、主の言われる実際的な 《 互いに愛し合う 》 群れとなって育って行った。それは単に教会内だけの利己的な性質のものではなく、2章47節 「すべての民に好意を持たれた。」/5章13節 「その人々は彼らを尊敬していた。」とあるように、教会内での愛は、外に光を放ち、その光は外部の人々を照らして行っているのを見る。
3章1節~8節のペテロに注目したい。「美しの門」とは、神殿の東門で、どの門よりも厚い金銀の板がはめ込まれた豪華な真鍮の門。そこに、この門とは全く対照的な存在として「生まれつき足のきかない男」が、「宮にはいる人たちから施しを求めるために」運ばれて来た。この光景は正に、恵まれた教会がどうするのか ? との挑戦であり、聖霊の恵みはペテロをして、この挑戦に応じさせた。ここに当然迫害が。
迫害を余儀なくさせた 《 ペテロに在る聖霊の愛 》 を見たい。
① ペテロは、耳にし、目にした「施しを求めた」男の存在から目を逸らさずに、直ちに ※ 4節 「その男を見つめて、『 私たちを見なさい 』 」と近付き、「施しを求めた」男の究極的な求めが何であるかを知って、大胆に応じた。
どれ程の人々が、礼拝の為にこの門を出入りしていたことだろう。しかし殆( ほとん )どの礼拝者の目には、男の存在は惨めな見世物でしかなかった。しかしペテロの目には、主を必要としている者、失われた 《 主の求める求道者 》 だったのだ。
② ペテロは開口一番、男の変身振りに驚いた人々に向って、12節 「なぜ・・・驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と正し、16節 「このイエスの御名が・・・強くしたのです。」と、力を主に帰した。
いつでも自らを頼みとしていたあのペテロが、完全に自らの空しさを知って、直ちに力を主に結び付けたのだ。
③ 17節 「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは・・・無知のためにあのような行いをしたのです。」と迫り、18節 「しかし、神は・・・」と、福音を語る機会を見逃さずに悔い改めを迫り、救いに導こうと心血を注いだ。
寝ても覚めても、魂の救いに関心があったのだ。
※ 教会が聖霊の愛に満たされる時、そこに求める者が引き寄せられる。同時に、何らかの迫害があるとの生活に留意を。
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