使徒の働き2章37節~47節
先週は、ペテロが 《 預言の成就としての聖霊の注ぎは、終わりの日への突入をも明言する出来事であったと触れつつ 》 説教を通して、人々の罪に言及したところに注目した。
説教の中心は33節にあるが、突如としてペテロが開口一番、23節 「あなたがたは、・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」と語り掛け、更に説教の締め括りでも、36節 「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と迫った。
それは、聖霊降臨という祝福の為に ※ 22節 「ナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われ」た神を、又、生涯を人の子として私たちと共に生活してくださった主を、・・・恐れ多くも恩を仇で返し、殺してしまったのがあなたがただったのだと、訴えざるを得なくされたからである。しかし、そこに福音が・・・。
ⅰ 人間的には取返しのつかない致命的な罪を犯してしまったのだとの、《 辛辣な指摘 》 を躊躇逡巡せずに伝えたこと。
主を裏切ったペテロが !? との謗( そし )りを免れ得ない立場からの説教だったが、赦しを確信したからこそ語られた説教と。
ⅱ 24節~32節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせ・・・」と証し、神は罪人の謀った悪事をさえ恵みの計画の成就の為に用いられたと、大胆に語った。
《 死を克服させた聖父の圧倒的な主権、主イエスが神の子として実証されたこと 》 は、罪人にとって何という慰め !
※ 罪の直截な指摘は、罪赦された感動から出るものであり、その指摘を謙虚に認める者には救いの機会となるとは ! と。
今朝は、37節 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか 』 と言った」場面に臨みたいと思います。
何という素晴らしい手応えを見ることになったのでしょう !
実にこの説教は、聖霊の働きによるものであったと証明された。ヨハネの福音書 16章8節 詳訳 「その方が来られる時、罪について・・・世が悟るようにされる」と主が言われた通りの現象。人々が「心を刺された」というのは、誰彼にではなく自分に語られたものとして受け止めさせられたからであり、ペテロによって語られた言葉が、余りにも衝撃的だったからである。
内容を再確認すると、《 あなたがたが十字架に付けて殺してしまったイエスは、紛れもなく、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」であった 》 と語られている。
即ち、主は 《 恐れ多くも神ご自身であり、本来ならば礼拝されるべきお方であったにも拘らず 》 十字架に付けられたのである。指導者に対しては、嫉妬心から殺害したその身の程知らずの冒涜を、民衆に対しては、恩知らずの冒涜を明るみにする説教だったのだ。彼らにとっては、私たちが想像する以上に恐ろしい瞬間だったに違いない。「心を刺された」とは、心が自責の念で引き裂かれ、絶望的な心理状態になったことの表れであり、その時の衝撃は、彼らの「私たちはどうしたらよいでしょうか」と叫ぶ声が物語っている。
人が経験する恐怖の中で 《 自分が犯してしまった過ちが取返しのつかないもの、責任を問われても償い切れないもの、死をもってしか報いることの出来ないものだと感じる程の 》 重く悲惨な恐怖心は他にないのでは !
しかし、その叫びのあるところには、否、その叫びのあるところにだけ希望があるというのが、ここで聖霊が、ペテロを通して迫られた勧めだった。
彼らは、どうすれば良かったのか ? ここに注目したい。
① 38節 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」に従うこと。
《 悔い改め 》 とは、単なる反省とか後悔のことではない。自らの生き方そのものの方向転換であり、神なき生活を止めて、神と歩みを共にする生活への意識的変換である。
ペテロの手紙 第一 2章24節~25節 「・・・罪を離れ、義のために生きるためです。・・・羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」にその説明がある。その時に必要とされていることが、罪の赦しであり、その為に「バプテスマを受けなさい」と勧められている。ということは、24節a 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」との、主の犠牲を受け入れること。バプテスマは、主と共に十字架に付き、主と共に葬られ、主と共に甦らせられることを意味するからである。
その時私たちは「賜物としての聖霊を受け」て聖霊と共に生きる新しい生活に導き入れられる。但しこの経験は、あくまでも、主と共に歩む第一の転機に過ぎず、第二の転機である聖霊の満たしはその日からの歩みで、内的腐敗性に気付かされて渇くという、明け渡しの日を待たなければならない。
② 41節 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」とあるが、42節~47節 「そして、彼らは・・・」と、ペンテコステのこの日から教会生活が始まった、ここに従うこと。
毎日群れをなして、集い合うことが許されていた初代教会を私たちは羨ましく思うだろうか ? 或いは、 “ そこまで、何の必要があって集まるのだろうか ? ” と、消極的な気持ちになるだろうか ? とにかく彼らは良く集まった人々である。
42節a 「教えを堅く守り、・・・交わりをし【コイノニヤ―重荷を共有する】」とは、弟子訓練の場が/46節b 「喜びと真心をもって食事をともにし」とは、神の家族としての霊的励まし合いが/42節b 「パンを裂き、祈りをし」、47節a 「神を賛美し」とは、礼拝の重視が/45節 「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」とは、仕え合う実践が/47節a' 「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」との、宣教の結実がここに。
主が、「・・・もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。 ヨハネの福音書 13章34節~35節」と言われた「愛があ」ったのは、当然。聖霊による愛の実が結ばれていったから。
※ 私たちの教会は、どれだけ初代教会に見られたこのような特色を持つ群れとなっているかを吟味して行きたい。教会が互いに愛し合う、その時、教会を通して聖霊が、宣教の結実をもたらされると覚えたい。
先週は、ペテロが 《 預言の成就としての聖霊の注ぎは、終わりの日への突入をも明言する出来事であったと触れつつ 》 説教を通して、人々の罪に言及したところに注目した。
説教の中心は33節にあるが、突如としてペテロが開口一番、23節 「あなたがたは、・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」と語り掛け、更に説教の締め括りでも、36節 「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と迫った。
それは、聖霊降臨という祝福の為に ※ 22節 「ナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われ」た神を、又、生涯を人の子として私たちと共に生活してくださった主を、・・・恐れ多くも恩を仇で返し、殺してしまったのがあなたがただったのだと、訴えざるを得なくされたからである。しかし、そこに福音が・・・。
ⅰ 人間的には取返しのつかない致命的な罪を犯してしまったのだとの、《 辛辣な指摘 》 を躊躇逡巡せずに伝えたこと。
主を裏切ったペテロが !? との謗( そし )りを免れ得ない立場からの説教だったが、赦しを確信したからこそ語られた説教と。
ⅱ 24節~32節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせ・・・」と証し、神は罪人の謀った悪事をさえ恵みの計画の成就の為に用いられたと、大胆に語った。
《 死を克服させた聖父の圧倒的な主権、主イエスが神の子として実証されたこと 》 は、罪人にとって何という慰め !
※ 罪の直截な指摘は、罪赦された感動から出るものであり、その指摘を謙虚に認める者には救いの機会となるとは ! と。
今朝は、37節 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか 』 と言った」場面に臨みたいと思います。
何という素晴らしい手応えを見ることになったのでしょう !
実にこの説教は、聖霊の働きによるものであったと証明された。ヨハネの福音書 16章8節 詳訳 「その方が来られる時、罪について・・・世が悟るようにされる」と主が言われた通りの現象。人々が「心を刺された」というのは、誰彼にではなく自分に語られたものとして受け止めさせられたからであり、ペテロによって語られた言葉が、余りにも衝撃的だったからである。
内容を再確認すると、《 あなたがたが十字架に付けて殺してしまったイエスは、紛れもなく、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」であった 》 と語られている。
即ち、主は 《 恐れ多くも神ご自身であり、本来ならば礼拝されるべきお方であったにも拘らず 》 十字架に付けられたのである。指導者に対しては、嫉妬心から殺害したその身の程知らずの冒涜を、民衆に対しては、恩知らずの冒涜を明るみにする説教だったのだ。彼らにとっては、私たちが想像する以上に恐ろしい瞬間だったに違いない。「心を刺された」とは、心が自責の念で引き裂かれ、絶望的な心理状態になったことの表れであり、その時の衝撃は、彼らの「私たちはどうしたらよいでしょうか」と叫ぶ声が物語っている。
人が経験する恐怖の中で 《 自分が犯してしまった過ちが取返しのつかないもの、責任を問われても償い切れないもの、死をもってしか報いることの出来ないものだと感じる程の 》 重く悲惨な恐怖心は他にないのでは !
しかし、その叫びのあるところには、否、その叫びのあるところにだけ希望があるというのが、ここで聖霊が、ペテロを通して迫られた勧めだった。
彼らは、どうすれば良かったのか ? ここに注目したい。
① 38節 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」に従うこと。
《 悔い改め 》 とは、単なる反省とか後悔のことではない。自らの生き方そのものの方向転換であり、神なき生活を止めて、神と歩みを共にする生活への意識的変換である。
ペテロの手紙 第一 2章24節~25節 「・・・罪を離れ、義のために生きるためです。・・・羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」にその説明がある。その時に必要とされていることが、罪の赦しであり、その為に「バプテスマを受けなさい」と勧められている。ということは、24節a 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」との、主の犠牲を受け入れること。バプテスマは、主と共に十字架に付き、主と共に葬られ、主と共に甦らせられることを意味するからである。
その時私たちは「賜物としての聖霊を受け」て聖霊と共に生きる新しい生活に導き入れられる。但しこの経験は、あくまでも、主と共に歩む第一の転機に過ぎず、第二の転機である聖霊の満たしはその日からの歩みで、内的腐敗性に気付かされて渇くという、明け渡しの日を待たなければならない。
② 41節 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」とあるが、42節~47節 「そして、彼らは・・・」と、ペンテコステのこの日から教会生活が始まった、ここに従うこと。
毎日群れをなして、集い合うことが許されていた初代教会を私たちは羨ましく思うだろうか ? 或いは、 “ そこまで、何の必要があって集まるのだろうか ? ” と、消極的な気持ちになるだろうか ? とにかく彼らは良く集まった人々である。
42節a 「教えを堅く守り、・・・交わりをし【コイノニヤ―重荷を共有する】」とは、弟子訓練の場が/46節b 「喜びと真心をもって食事をともにし」とは、神の家族としての霊的励まし合いが/42節b 「パンを裂き、祈りをし」、47節a 「神を賛美し」とは、礼拝の重視が/45節 「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」とは、仕え合う実践が/47節a' 「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」との、宣教の結実がここに。
主が、「・・・もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。 ヨハネの福音書 13章34節~35節」と言われた「愛があ」ったのは、当然。聖霊による愛の実が結ばれていったから。
※ 私たちの教会は、どれだけ初代教会に見られたこのような特色を持つ群れとなっているかを吟味して行きたい。教会が互いに愛し合う、その時、教会を通して聖霊が、宣教の結実をもたらされると覚えたい。
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