使徒の働き2章22節~36節
先週は、超自然的な出来事に驚いた巡礼者たちが、弟子たちの集まっていた所に詰め掛けて来た時、ペテロが聖霊に促されて語り始めた場面でのこと。聖霊の注ぎは 《 ヨエルの預言の成就であったとの事実と共に、この日をもって神の人類へのご計画が、17節 「終わりの日【時代】」に突入したことを宣言する 》 画期的出来事だったとの認識を新たにした。
ⅰ 17節 「わたしの霊」がすべての人に注がれること。
旧約時代では 《 聖霊の注ぎは、預言者、王、祭司に限られていた 》 が、聖霊降臨以来、主を信じる全てのキリスト者に臨み、其々置かれた立場を異にし、誰一人として例外なく「息子や娘は預言し【神のみ旨を告げ】、青年は幻を見【神の為にビジョン・志を与えられ】、老人は夢を見る【年老いても希望に溢れている】」生涯を送る者とする、と。
このことは、既に弟子たちにおいて実現し、二千年間キリスト者たちに継承されて今日に及び、私たちは今、聖霊の注ぎの与えられる祝福と責任の直中にいる。
ⅱ これから起こると予告されている厳粛な日のこと。
19節~20節は、宇宙規模のしるしという激変の予告である。この言葉は、黙示録 6章9節~17節の ※ 17節 「御怒りの大いなる日が来た」と言われる直前の現象に同様。
※ この事実を予め知る者として、今日の在り方に光が当てられるべきである。その時の唯一の希望は、21節 「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」との約束である。この福音を持つ者として、責任あるキリスト者生活に心したい、と。
今朝は、ペテロが 《 聖霊の注ぎが預言の成就だったこと、更に終わりの日に突入したこととを明言して後 》、この預言の成就を通して、人々の罪に言及して説教したところに注目したい。
ここでの中心的テーマは、33節 「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」にある。この説教の結果は来週学びますが、その内容は実に、37節 以下 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか 』 と言った。」と聴衆を叫ばせ、遂に彼らを悔い改めに導くものだった !
彼らの心に、何が届けられたからだったのでしょうか ?
この出来事の要約は、ガラテヤ人への手紙 3章13節~14節 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『 木にかけられる者はすべてのろわれたものである 』 と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」である。
ですからペテロは、聖父のこのご計画、即ち、主の身代わりの生涯は、《 この「約束の御霊」を人々に与えることを究極的な目的としておられた 》 ということ、旧約時代では到底考えられなかった 《 人類史上の最も輝かしい聖霊降臨という画期的な出来事に向かっての生涯であったこと 》 とを伝えさえすれば良かった。
ところが突如としてペテロが開口一番、22節a 「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください・・・」と言って語り始めたことは、23節 「あなたがたは、・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」であった。説教の締め括りも又、36節 「・・・このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」なのだ。
聖父のご計画は、確かに、ガラテヤの手紙の言う「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました・・・このことは」と、主の身代わりの死によって人類を祝福し、その最たる祝福として「約束の御霊」を注ぐことにあったのだ。アブラハムへの約束は、創世記 12章3節 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」であり、アブラハムの子孫として誕生する主イエスの死によって実現するということだった。遂に時満ちて、聖父は粛々とみわざを行われた。このことは私たち罪人には、到底推し量ることの出来ない、極めて深遠な出来事であり、聖父の圧倒的な人類を愛する愛によるご計画なのだ。
しかしペテロは、この人類への祝福の為に、22節 「ナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われ」た神を、又、生涯を人の子として完全な生き方をもって私たちと共に生活してくださった主を、・・・恐れ多くも恩を仇で返し、殺してしまったのがあなたがただったのだと、訴えざるを得なくされている。
「聖霊に押し出されて」語ったペテロは・・・
① 人間的には取返しのつかない致命的な罪を犯してしまったのだとの、《 辛辣な指摘 》 を躊躇逡巡せずに伝えた。
ここで明確な説教をすることは、人々からの、彼を誹謗する声を覚悟しなければならないことでもあった。又彼自身、自らの裏切りを意識したならば出来なかった説教だったとも考えられる。しかしペテロは、説教したのだ。そこには赦しを確信した者の恵みによる強さがあり、同時に、主を同じように裏切った隣人の魂への愛と重荷から、語らざるを得なくされての説教だったことが分かる。否、ペテロを押し出された聖霊が、彼の砕かれた魂をそれと認めて、語らせたのだ。
② 24節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」/32節 「神はこのイエスをよみがえらせました。」と、神の現実を証し、神は罪人の謀った悪事をさえ用いて、ご計画を成就されたお方と大胆に語った。
現に、罪人の罪は全て、取返しのつかないことばかり。その最たる罪は主を十字架に掛けたことではあるが、31節 「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。 ⇒ 詩篇 16篇10節」で証しされている 《 死を克服させた聖父の圧倒的な主権、主イエスの神の子であるとの証言 》 は、罪人にとって何という慰めであることか !
※ 罪の直截な指摘は、自ら赦されたとの感動から出るものであり、それを謙虚に認める者への救いの機会でもあるとは、何という憐れみ ! 説教者ペテロに涙があったのでは !
先週は、超自然的な出来事に驚いた巡礼者たちが、弟子たちの集まっていた所に詰め掛けて来た時、ペテロが聖霊に促されて語り始めた場面でのこと。聖霊の注ぎは 《 ヨエルの預言の成就であったとの事実と共に、この日をもって神の人類へのご計画が、17節 「終わりの日【時代】」に突入したことを宣言する 》 画期的出来事だったとの認識を新たにした。
ⅰ 17節 「わたしの霊」がすべての人に注がれること。
旧約時代では 《 聖霊の注ぎは、預言者、王、祭司に限られていた 》 が、聖霊降臨以来、主を信じる全てのキリスト者に臨み、其々置かれた立場を異にし、誰一人として例外なく「息子や娘は預言し【神のみ旨を告げ】、青年は幻を見【神の為にビジョン・志を与えられ】、老人は夢を見る【年老いても希望に溢れている】」生涯を送る者とする、と。
このことは、既に弟子たちにおいて実現し、二千年間キリスト者たちに継承されて今日に及び、私たちは今、聖霊の注ぎの与えられる祝福と責任の直中にいる。
ⅱ これから起こると予告されている厳粛な日のこと。
19節~20節は、宇宙規模のしるしという激変の予告である。この言葉は、黙示録 6章9節~17節の ※ 17節 「御怒りの大いなる日が来た」と言われる直前の現象に同様。
※ この事実を予め知る者として、今日の在り方に光が当てられるべきである。その時の唯一の希望は、21節 「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」との約束である。この福音を持つ者として、責任あるキリスト者生活に心したい、と。
今朝は、ペテロが 《 聖霊の注ぎが預言の成就だったこと、更に終わりの日に突入したこととを明言して後 》、この預言の成就を通して、人々の罪に言及して説教したところに注目したい。
ここでの中心的テーマは、33節 「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」にある。この説教の結果は来週学びますが、その内容は実に、37節 以下 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか 』 と言った。」と聴衆を叫ばせ、遂に彼らを悔い改めに導くものだった !
彼らの心に、何が届けられたからだったのでしょうか ?
この出来事の要約は、ガラテヤ人への手紙 3章13節~14節 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『 木にかけられる者はすべてのろわれたものである 』 と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」である。
ですからペテロは、聖父のこのご計画、即ち、主の身代わりの生涯は、《 この「約束の御霊」を人々に与えることを究極的な目的としておられた 》 ということ、旧約時代では到底考えられなかった 《 人類史上の最も輝かしい聖霊降臨という画期的な出来事に向かっての生涯であったこと 》 とを伝えさえすれば良かった。
ところが突如としてペテロが開口一番、22節a 「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください・・・」と言って語り始めたことは、23節 「あなたがたは、・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」であった。説教の締め括りも又、36節 「・・・このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」なのだ。
聖父のご計画は、確かに、ガラテヤの手紙の言う「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました・・・このことは」と、主の身代わりの死によって人類を祝福し、その最たる祝福として「約束の御霊」を注ぐことにあったのだ。アブラハムへの約束は、創世記 12章3節 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」であり、アブラハムの子孫として誕生する主イエスの死によって実現するということだった。遂に時満ちて、聖父は粛々とみわざを行われた。このことは私たち罪人には、到底推し量ることの出来ない、極めて深遠な出来事であり、聖父の圧倒的な人類を愛する愛によるご計画なのだ。
しかしペテロは、この人類への祝福の為に、22節 「ナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われ」た神を、又、生涯を人の子として完全な生き方をもって私たちと共に生活してくださった主を、・・・恐れ多くも恩を仇で返し、殺してしまったのがあなたがただったのだと、訴えざるを得なくされている。
「聖霊に押し出されて」語ったペテロは・・・
① 人間的には取返しのつかない致命的な罪を犯してしまったのだとの、《 辛辣な指摘 》 を躊躇逡巡せずに伝えた。
ここで明確な説教をすることは、人々からの、彼を誹謗する声を覚悟しなければならないことでもあった。又彼自身、自らの裏切りを意識したならば出来なかった説教だったとも考えられる。しかしペテロは、説教したのだ。そこには赦しを確信した者の恵みによる強さがあり、同時に、主を同じように裏切った隣人の魂への愛と重荷から、語らざるを得なくされての説教だったことが分かる。否、ペテロを押し出された聖霊が、彼の砕かれた魂をそれと認めて、語らせたのだ。
② 24節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」/32節 「神はこのイエスをよみがえらせました。」と、神の現実を証し、神は罪人の謀った悪事をさえ用いて、ご計画を成就されたお方と大胆に語った。
現に、罪人の罪は全て、取返しのつかないことばかり。その最たる罪は主を十字架に掛けたことではあるが、31節 「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。 ⇒ 詩篇 16篇10節」で証しされている 《 死を克服させた聖父の圧倒的な主権、主イエスの神の子であるとの証言 》 は、罪人にとって何という慰めであることか !
※ 罪の直截な指摘は、自ら赦されたとの感動から出るものであり、それを謙虚に認める者への救いの機会でもあるとは、何という憐れみ ! 説教者ペテロに涙があったのでは !
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