聖日礼拝 『使徒の働き』 より 6


使徒の働き2章14節~21節

先週は、折しIGM創立記念礼拝でしたが、主の予告しておられた 《 聖霊降臨 》 成就の出来事に注目致しました。
この日は、1節 冒頭 「五旬節の日」 ※ が満ちた 《 ユダヤ人三大祭りでのこと 》。9節~11節でも分かるように、各地からの離散ユダヤ人のみならず、ユダヤの祭りに興味を抱く異邦人巡礼者で賑わう最中でのこと。聖霊降臨の日について・・・

ⅰ 2節 「すると突然」、であったこと。
「突然」とあるが、用意周到な準備【16節~21節 ⇒ B.C.835年頃、預言者ヨエルによって預言されていた】が為された上での成就であり、1節 「みなが一つ所に集まっていた」を受けての、2節 「すると」と、自らの無力さに打ちのめされて出ていた時のこと。唯、個人的な必要を求めるだけでなく、21世紀のキリスト教界の現状に痛み、神の御名が汚されている今、IGMが本来の使命に生きるべく渇く時 ! 渇くその時、そこに、注がれるのだ。 

ⅱ その条件を満たした弟子たちに、聖霊が注がれた。
2節 「天から、激しい風が吹いて来るような響きが」、3節 「炎のような分かれた舌が」とあるのは、聖霊の超自然的到来の宣言である。火は、聖霊の働きを意識させる為の象徴を意味する !

ⅲ 聖霊による世界福音宣教の幕開けとなった。
宣教の鍵はここに ! 弟子たちが聖霊に満たされた時、6節 「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た」。彼らの反応は「驚き怪しんで( 7節 )/驚き惑って( 12節 )/あざける者たちもいた( 13節 )」に始まるが、弟子たちが 《 福音を明確に経験する時 》 即、周囲の人々に伝道の実を見ることに !

※ 伝道は叫ぶことではなく、活きた福音経験から始まる、と。


今朝は、超自然的な出来事に驚いた巡礼者たちが、弟子たちの集まっていた所に詰め掛けて来た時のこと。14節、ペテロが「十一人とともに立って」と、たった今起こった 《 聖霊が注がれたことについて大胆に語り出した 》 記事に学びます。
ここでも、やはり代弁者として真っ先に立ち上がったのがペテロだったが、先の使徒職補充の時とは明らかに違って、※ 押し出されてであったことは、注目すべき点である。
ペテロはここで、明らかに聖霊に満たされ、聖霊の促しによって立ち上がったというのだ。これこそ「聖霊と火とのバプテスマ」を授った証である。生来の気負いによってではなく、明らかに、主の言われた「聖霊が・・・臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。1章8節」が彼の経験となった。自我は砕かれ、肉の性質は火で清められた。かつてその肉の故に迫害を恐れて主を捨て、自らの命を守った卑怯者のペテロが !
実に最後の晩餐の時、主を捨てないと豪語したあのペテロにおいて、主の言われた予知が、実現を見ることになったのだ。ルカの福音書 22章32節 「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら・・・」と。
ペテロに押し迫って来た人々の驚き振りは尋常ではなく、13節では「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と嘲笑する始末だったが、それでも雑多な人々を前に、ペテロは怖気付かずに大胆に、16節 「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。」と聖書の裏付けをもって明言したのだ。旧約聖書の権威を認めるユダヤ人には打って付けの答えだった。主から学んで貯えられていた聖書の知識に、聖霊の火が点火されたのだ。

17節~21節は、ヨエル書 2章28節~32節の引用であるが、私たちは今日、《 聖霊降臨の驚くべき預言が成就されたとの事実を見るだけでなく、この日をもって神の人類に対するご計画が、17節 「終わりの日【時代】」に突入したことを宣言する画期的出来事 》 であったと、改めて認識しなければならない。
聖霊降臨は、「終わりの日」を迎えたことの究極的な宣言となったということ。実は、ヘブル人への手紙 1章2節でも、「この終わりの時には、御子によって・・・」と言っている。それは、御子のご奉仕が、ベツレヘムの家畜小屋から始まって、昇天聖霊を注ぐことをもって終結するからである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを・・・贖い出してくださいました。・・・このことは、・・・約束の聖霊を受けるためなのです。 ガラテヤ人への手紙 3章13節~14節」と。

そこで、この「終わりの日」に突入した証として・・・

① 17節 「わたしの霊」が、全ての人に注がれること。

このことは、旧約時代では 《 聖霊の注ぎは、預言者、王、祭司に限られていた 》 ことを意味しているが、「息子、娘、しもべ、はしため」と、あらゆる年齢、階層の人々に及ぶと。
旧約聖書を読む時、エゼキエル書 2章7節~8節 「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」との召命を受けては、預言者が聖霊に遣わされて出て行っているのを見る。
彼ら預言者に注がれた聖霊は、聖霊降臨以来、主を信じる全てのキリスト者に臨み、其々置かれた立場を異にし、誰一人として例外なく「息子や娘は預言し【神のみ旨を告げ】、青年は幻を見【神の為にビジョン・志を与えられ】、老人は夢を見る【年老いても希望に溢れている】」生涯を送る者とする、と。このことは、既に弟子たちにおいて実現し、二千年間キリスト者たちに継承されて今日に及び、私たちは今、聖霊の注ぎの与えられる祝福と責任の直中にいる。

② これから起こると予告されている厳粛な日のこと。

19節~20節 「また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」という、宇宙規模のしるし、激変の予告である。この言葉は、黙示録 6章9節~17節の、12節 「月の全面が血のようになった。」に同じ。ここでも、※ 17節 「御怒りの大いなる日が来」る、その直前の現象として描かれている。


※ 私たちは、聖霊降臨が成就したように、確実にこの日を迎えようとしている。この事実を予め知る者としての今日の在り方に光が当てられるべきではないか ! このような事実を前にして与えられている唯一の希望は、21節 「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」との約束である。この福音を持つ者として、責任あるキリスト者生活に心したい。

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