聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 125 完


献堂16周年記念 宣教礼拝
マタイの福音書28章16節~20節

先週は、遂に、6節 「前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と 《 成就された主の復活 》 に注目した。
この ※ 「前から言っておられた」とは、主による度々の直接的な予告であるが、それは創世記 3章15節 「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」に始まっている。サタンは【主の誕生の阻止を謀る旧約時代を含め、主の地上生涯における三十三年間を通し、噛み付き続けて遂に主を十字架刑に処して勝どきをあげるが】、主の復活によって頭を徹底的に踏み砕かれるとの預言である。
復活こそ、人類史上最も輝かしい重大ニュース !
復活の証人となった器に、この事実を見て感謝した。

ⅰ 十字架刑執行の朝、主を捨てたあのペテロが、復活された主の昇天注がれた聖霊によって行った説教による証言【使徒の働き 2章24節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」】に !

ⅱ キリスト者迫害の第一人者であったパウロの説教による証言【使徒の働き 26章15節 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」との直接的な顕現】に !

ⅲ 主を裏切り、迫害する彼らであったにも拘らず、彼らが復活の証人となり得たのは 《 主の復活がもたらした福音の経験者となった 》 から。
⇒ 罪の報酬である死の代価は支払われ、罪の赦しと罪性の清めとに与ったからである。


※ 私たちも 《 復活の証人 》 でありたい、と。


今朝は、一昨年の三月から共に学んで参りました 『 マタイの福音書 』 の連講も125回をもって締め括る最後の箇所となりました。折しも、宣教の拠点が移されてより16周年を記念する宣教礼拝の朝に相応しく、復活の主による 《 宣教大命令・至上命令 》 である ※ 19節 「あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。」を鍵にメッセージをお取次ぎしたい。

① この命令は、先ず、主ご自身が手掛けられたことだった。

主のご奉仕は、バプテスマのヨハネがヘロデによって捕らえられたことを機に、ガリラヤ地方で開始され、徐々に主に従う者たちが起こされるようになるのであるが、主の弟子作りは、ご奉仕の半ば、一年半が経過してからである。
復活された主が、四十日弟子たちにご自身を現された時には、総勢「五百人以上の兄弟たちに同時に・・・ コリント人への手紙 第一 15章6節」であったと、パウロは伝えている。主の恩沢を受けた人々の多くは、あの十字架の日に主を裏切ったものの、それでも「五百人以上の兄弟たち」と数えられる人々が信仰に留まったのだ。
ルカの福音書に主が七十人を派遣しておられる記事があるが( 10章1節~ )、それでも先ず、訓練の対象を十二人に絞って、マルコの福音書 3章13節~19節 「※ 14 ・・・彼らを身近に置き」、後の日に備えられた。
その中でも三人【ペテロ、ヤコブ、ヨハネ】をより近付けて、重要な場所に立ち合わせておられる。彼ら三人が、聖霊降臨後に誕生したエルサレム教会初の指導者として、取り分け用いられていることから、その意義を知る。
この事実は 《 主のご奉仕が、唯人々を救いに導くことをもって良しとせずに、救われた人々を主の弟子とすることを目的とし、その為救われた私たちも主の弟子とされること、教会も弟子作りを目指すべきことと 》 を語っている。

② 主はこの弟子作りをどのように行われたのか ?

主が命じられた19節からの ※ 「行って」、「バプテスマを授け」、「教えなさい」に、ご自身が従われたことによってであった。
a. 「行って」 ⇒ ヨハネの福音書 1章14節 「ことばは人となって【ピリピ 2章6節~8節】、私たちの間に住まわれた」受肉である。
主は罪人を救い、罪人を弟子とする為に、「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして【※ 特権を主張されずに】、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」。私たちも又、主のこの姿勢に倣うべきなのだ。
主は、日々、私たちの為に、愛をもって生活を共にしてくださった。取りも直さずコリント人への手紙 第一 13章4節~8節 「愛は寛容であり、愛は親切です。・・・自分の利益を求めず・・・」と、いつもご自身の願いは、寝ても覚めても、私たちが救われ、遂には主の弟子として聖父の器とされることにあった。唯そのことをのみ求めて、瞬時を生き、生き抜いてくださったのだ。
b. 「バプテスマを授け」 ⇒ バプテスマとは「浸す」の意。 
ローマ人への手紙 6章4節 「私たちは、キリストの死あずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」とある。キリストの死は、罪人である私に代わって引き受けられた身代わりの死であると。
その為に主は、人々を罪の自覚に導き、十字架の死による赦しを求めさせ、与るように導かれたのだ。
主の身代わりの死を、個人的に信じ受け入れる時、主が死者の中から甦られたように、私をも主と共に甦らせ、主との交わりに、更には兄弟姉妹との交わりに導かれるようになることを意味している( ヨハネの福音書 13章34節~35節 )。
c. 「教え」 ⇒ 「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように」である。
ヨハネの手紙 第一 1章1節~3節 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて・・・伝えます。・・・」と、主が弟子に教えられたのは、単なる言葉による教えではなく、生活を通しての実践的教えだったと。

③ 主は 《 弟子に、主の命令を可能にする鍵を 》 与えられた。

鍵は、19節 「それゆえ」である。18節 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」を受けての「それゆえ」と。死に打ち勝たれた主において可能、その主が、20節 「・・・いつも、あなたがたとともにいます。」と、宣教命令に従う教会への保証、約束が与えられている !


※ 私たちの側の応答は、《 主が為さったように、すること 》 なのだ !
弟子たちは従った。『 使徒の働き 』 がその結実 ! 主は約束通り聖霊によって共におられ、福音宣教を継続しておられる。

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