聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 123


マタイの福音書27章62節~28章4節

先週は、主が金曜日の午後三時に息を引き取られた後の、日没までの二、三時間でのこと、埋葬の為にと、総督ピラトに主のみ体の下げ降ろしを求めた二人の人物に学んだ。

ⅰ アリマタヤのヨセフ。
エルサレム最高議会の議員として、議会での主の殺害計画と行動には同意こそしなかったものの、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」。ところが、その彼が、「思い切って【結果を恐れずに、勇気を出して( あえて )】ピラトのところに行」った。マルコの福音書 15章43節。
主が処刑された今、その自らを痛みの中で恥じたのだ。十字架の主は、彼を世的な束縛から解放し、議員職の除名処分をすら辞さないまでの信仰に導かれたのだ。

ⅱ 申し合わせた訳ではないが、ニコデモも共に。
彼も又、ヨセフ同様、他の議員とは一線をしつつも、弟子であることだけは隠していた。そうした中途半端な信仰生活の転機が主の実刑である。( 刑を執行する側の人間として )共犯者となったとの恐怖が彼を襲ったのだ。しかし彼も又、真実な謙りのうちに、十字架の主によって、世的な束縛から解放されたのだ。

※ 釘によって打たれた主のみ体は、自らの過去の無念さから立ち上がった器方の手よって埋葬されたのだ。
十字架の主を目撃する人は皆過去にどれ程の身勝手な生き方があったとしても、自らの罪に身震いさせられて主を礼拝する者とされる。ヨセフが主を「自分の新しい墓に納め」、ニコデモが「没薬とアロエ」を備えて主に仕えたように、主に仕える特権に与るとは何という激励であることか、と。


今朝は、主のみ体が二人の弟子によって埋葬されて後、66節 「彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」とある 《 主を処刑した人々の行動に注目して 》 メッセージを。
彼ら【62節 「・・・祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって」】が取ったその行動は、二つのことを明確にした。

① 彼らは、十字架刑をもって主を抹殺したものの、主の語られた言葉を抹殺出来ずに、新たな苦悩に縛られることになった。

63節~64節 「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『 自分は三日の後によみがえる 』 と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『 死人の中からよみがえった 』 と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」とある。主が処刑された時、彼らは勝どきをあげた筈ではなかったのか ?
彼らの目の前から主は消えた筈なのに、彼らには何をしても心休まることにはならかったのだ。彼らのする事なす事が全て、肉の思いに基づいているからに他ならない。
ガラテヤ人への手紙 5章19節~23節は、《 肉と御霊との 》 生き方、在り方の明らかなコントラストを伝えている。肉の行いは皆、「・・・不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興・・・」に動機付けられている限り、結果はそれらに見合ったものとなるのは当然である。
マタイの福音書 7章18節 「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」と主が言われた通りなのだ。27章18節 「ねたみからイエスを引き渡し」、ヨハネの福音書 7章46節~49節 「・・・おまえたちも惑わされて・・・」等の妬みによる苛立ち憤りが明白であり、《 彼らの行動は、ことごとく動機が肉 》 なのだ。
そこにはいつも、64節 「そうでないと・・・と民衆に言うかもしれません。そうなると・・・もっとひどいことになります。」と、疑心暗鬼で穏やかでは居られず、行動に落ち着きがなく騒がしい。何と、聖霊の実とは相容れない惨めな様子 !
ピラトが65節で、「番兵を出してやるから・・・」とは、実に簡潔なあしらいである。 “ 兵隊を出すから、後は好きなようにすれば良い ” とした。ここでは係わりたくないとする様子が伺える。
出て行った祭司長・パリサイ人たちは番兵だけでは足りず、念には念を入れて、66節 「石に封印を」して安心を得ようとした。

② ところが、人手による万全な筈の「封印」も、唯、主の復活の事実をより明確なもの、紛れもない歴史的出来事であったと証言するのに貢献しただけで、「あの、人をだます男・・・ 63節」と実証するには至らならなかった。

28章1節~2節 「さて、安息日が終わって、週の初めの日のけ方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。」とは、神の圧倒的・直接的な干渉である。
4節には「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」とあるが、実に、祭司長・パリサイ人たちが恐れていた通り、《 63節 「自分は三日の後によみがえる」と言われた主の復活の予告は 》 現実となったのだ。
この出来事のその後について、28章11節~15節で伝えているが、12節a 「祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し」と、虚偽に虚偽を重ね、何としても主の復活の出来事を阻止しようと躍起になるばかり。兵士たちに、12節b 「多額の金を与え」、13節 「・・・弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」と言わせ、彼らが被るかも知れないピラトからの仕打ちに対しては、便宜を図るからとまで確約するその念入りさに、その執拗な様子を見る。
ここに 《 神の前には人の用意周到な計画も全て虚しいとの事実 》 を認めて、主への信頼をより完全なものとしたい。
詩篇 2篇1節~3節は、神に対する憎悪の念をもって逆らう権威者の態度である。その心は、3節 「さあ、彼ら【2節 ⇒ 主と、主に油をそそがれた者】のかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」であるが、神が人の祝福の為にと定めておられる掟【神の意志、計画の全て】から自由になろう、自分たちの手で、どうにでもなるのだからと豪語している。
しかし厳粛なことには、次の4節~7節 「天の御座に着いておられる方は笑う」のだ。人の巡らした如何なる策略も全て、神の威光によって瞬く間に処理され、神の御心のみ堅く立つ。


※ 世は唯、詩篇 2篇12節 「御子に口づけせよ。」との和解に従うのみ。

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