聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 122


マタイの福音書27章57節~61節

先週は、主が「世の罪を取り除く神の小羊」として屠られ、人類の贖いを成し遂げられるご最期の厳粛な場面に学んだ。
46節の「どうして」とは、捨てられた理由を尋ねられたのではない。十字架上で主が、罪人の受けるべき罪の報酬としての呪いの死を代わって受け、聖父から捨てられている今、死の現実に戦慄されてのお言葉であり、後の ※ 「わたしは渇く」とも仰った 《 地獄の究極の苦しみからの絶叫 》 なのだと。 ( ※ ヨハネの福音書 19章28節 )
この結果、51節 「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」、この事実に注目してメッセージとした。

ⅰ ヘブル人への手紙 10章20節 現代訳 「イエスはご自分の体を犠牲にし、聖所と至聖所の間を隔てていた垂幕を取り除き、私たちが神の御許に自由に行けるようにして下さった」こと。

ⅱ ヘブル人への手紙 4章14節~16節 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵み【霊的必要の全て ⇒ 血潮による罪の赦し、きよめの恵み】をいただいて、おりにかなった助け【時宜を得た助け ⇒ その都度その瞬間、ちょうど私たちが必要とする特別の援助】を受けるために、大胆に恵みの御座【至聖所の血潮の注がれる契約の箱のふた ⇒ 贖罪蓋】に近づこうではありませんか。」に従うことの出来る者とされたこと。

※ 最後に感謝した。十字架上における極度の苦しみの中では距離感をもって「わが神」としかお呼び出来なかった神を、最期にはもう一度、「父よ。わが霊を御手に委ねます。」とお呼びになったことを。その呪われた苦悩の経験の真っ只中で、罪人の救いの為にご自身を復活させる聖父を信じ抜かれたことを【ヘブ12章2節、イザヤ 53章11節】と。


今朝は、主が金曜日の午後三時に息を引き取られた後、埋葬された記事に学びます。主の埋葬に係わった人々に注目して、メッセージとしたい。
( 今朝週報と共にお配りしたプリントは、埋葬の出来事についての各福音書の記事ですが、読み合わせることによってより正確な内容の把握をと願って作成したものです。 )

そこには、アリマタヤのヨセフと共に同僚のニコデモが一緒であったこと。更にその場に、埋葬の様子を見届けて、自分たちの為す分を知りたいと願って居合わせている女性たちの姿が目に入る。滅びの子ユダ以外の弟子の行方が分からない状況下にあっての女性たちに、主への深い愛を見る。
主の処刑現場に立会い、十字架上から叫ばれる主のお言葉を直接聞く距離におり、何と、主からお声を掛けられてもいたヨハネは、どうしたのだろうか ?
あの強盗人の一人に、主が「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰って後【ルカ 23章43節】、全地が真っ暗闇になる前のこと。ヨハネの福音書 19章26節~27節 「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に 『 女の方。そこに、あなたの息子がいます 』 と言われた。それからその弟子に 『 そこに、あなたの母がいます 』 と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」とある。
主の死は母マリヤにとって、「剣が心をさえも刺し貫く」経験だったことから考えて、主が息を引き取られて後、ヨハネはマリヤを支えて現場から間もなく下山したことだろう。
さて埋葬の時刻は、57節 「夕方になって」、ルカの福音書 23章54節 「・・・もう安息日が始まろうとしていた。」とあるが、息を引き取られる午後三時から日没までの二三時間でのことである。

① 埋葬に携わったアリマタヤのヨセフ。

ルカの福音書 23章50節~51節には、エルサレムの最高議会の議員だったとある。いつもの議題となっていたイエスへの殺害計画と行動には同意こそしなかったものの、ヨハネの福音書 19章38節 「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」。ところが、そのヨセフが、マルコの福音書 15章43節 「思い切って【詳訳 : 結果を恐れずに、勇気を出して( あえて )】ピラトのところに行」ったというのだ。
主のご在世時には、自らの信仰を公にすることを恐れていた彼が、主が処刑された今、自らの臆病さ、自らの公的立場に縛られていたことを痛みの中で恥じているのだ。
私たちも、今日までの過去を想起しては、 “ あの時、もしあの時・・・こうすれば良かったものを、何故私は・・・ ” と悲嘆に暮れる思いを経験して来たのでは ? しかしそこからの立ち上がりは、いつまでもその過去の事実に縛られる自我を捨て、自分の罪深い正体を認め、今願っているような者ではなかったことを悔い改め、今という時に与えられている機会を最大限に活かすべく、悔い改めに相応しい行動に出るのみ。
ヨセフをして、総督ピラトの官邸に 《 結果を恐れずに 》 駆け込ませたのは、十字架の主が、彼を世的な束縛から解放したことによる。たとえ自らの議員としての立場が危ぶまれようが( 除名処分になり兼ねないとしても )、それで良しとするまでに。
主の下げ降ろしを願ったヨセフの申し出に、ピラトは許可を与えている。何故 ? ピラトも又、彼は彼で、主を正しい方と知りつつも、自らの栄誉を守る為に、主を処刑することに同意したのである。そこに拭い切れない罪責感を持っていたからでは ? むしろ内心、罪滅ぼしにとの期待もあったから出来たとも考えられる。

② 申し合わせた訳ではないが、埋葬した人の中にはニコデモもいた。

ヨハネの福音書 19章39節 「前に、夜【同 3章1節~15節】イエスのところに来た」彼も又、アリマタヤのヨセフ同様、信仰を公に出来ずにいた。それでも、他の議員とは一線を画しての行動は取っていた。エルサレム議会が主の存在に苛立ち、敵対意識が増大していく中、同 7章45節~51節でのニコデモに、主への精一杯の忠誠を尽くしたいとする信仰を見る。
そうした中途半端な信仰生活の転機が主の十字架刑である。( 十字架に付ける者たちの )共犯者となったとの恐怖が彼を襲ったのだ。しかし彼は真実な謙りをもって、主の前に憐れんで頂いたのだ。十字架の主が、彼をも世的な束縛から解放することになったのだ。


息を引き取られた後の主のみ体は 《 自らの過去を悔いても悔い切れない無念さから立ち上がった器方の手よって 》 埋葬されたのだ。ヨセフが主を「自分の新しい墓に納め」、ニコデモが「没薬とアロエ」を備えて主に仕えたように、主に仕える特権に与るとは何という激励【マタイ 27章59節~60節、ヨハネ 19章39節】。十字架の主を目撃する人は皆、過去にどれ程の身勝手な生き方があったとしても、自らの罪に身震いさせられて主を礼拝する者とされる。

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