聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 121


マタイの福音書27章45節~56節

先週は、遂にゴルゴダの丘で十字架刑に処せられた主が、39節~40節 「道を行く人々」、41節~43節 「祭司長・・・律法学者、長老たち」、44節 「イエスといっしょに十字架につけられた強盗」からの口を揃えての罵倒〈 自分を救ってみろを浴びせ掛けられながらも、彼らのその皮肉の言葉から、いみじくも 《 主の生き方そのものを 》 言い当てさせた場面に注目した。
救いの光を放たれる主を、44節 「同じようにイエスをののしった」強盗の一人が、主のお姿を身近で見て、遂に回心したという事実に見た。

ⅰ 34節 「苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。・・・それをなめただけで飲もうとはされなかった」主を。
鎮痛剤を差し出す敵対者の好意を拒絶せずに受け止めつつも、聖父からの使命を全うすべく意識を鮮明にと、聖父への賢明な従順の姿勢を取られる主。同情するローマ兵の背後に潜( ひそ )む、黒幕の存在・サタンを知っておられたからだ。

ⅱ ルカの福音書 23章34節 「その時、イエスはこう言われた。『 父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。 』 」と、処刑されるや否や、こう祈られた主を。
同 40節~42節では、その初めには主を罵倒していた彼であるが 《 罵られても罵り返さず、むしろ敵対者の為に祈られる 》 主のお姿に圧倒されて打ち砕かれることになった。
主はその強盗の一人を変えたのだ。彼をして、もう一人の強盗を窘( たしな )めさせ、主に憐れみを求めて「・・・私を思い出してください」と祈らせ、彼に永遠の赦しと命の約束をお与えに。

※ 受難の最中、文字通り 《 他人を救って己を捨てられた主 》 の愛が彼を捕らえたと覚えて、主の歩みに近付きたい、と。


今朝は、主が息を引き取られる最期の場面、ヨハネの福音書 1章29節の「世の罪を取り除く神の小羊」として屠られ、人類の贖いを成し遂げられる厳粛な場面です。
46節 「三時ごろ、イエスは大声で、『 エリ、エリ、レマ、サバクタニ 』 と叫ばれた。これは、『 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか 』 という意味である。」は、ガラテヤ人への手紙 3章13節 私たちのためにのろわれたものとなって」下さった瞬間、味わわれた極限状態にあっての苦しみからの叫びである。この叫びは、実に、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 ヤコブの手紙 1章15節」、「罪から来る報酬は死です。 ローマ人への手紙 6章23節」とある 《 本来、私たちが罪の結果として受けるべき呪い、死を、罪なき主が身代わりに受けて下さった 》 場面です。
この「どうして」とは、捨てられた理由を聞かれたのではない。ここでは、見捨てられた厳しい現実が伝えられているのだ。最早、主と聖父とは、「わが父」ではなく「わが神」と呼ばざるを得ない関係となり、途轍もなく恐ろしい距離感は呪いの厳しい現実なのだ。ゲッセマネでは、神に捨てられるであろうことを考えただけで、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。 26章38節」だったが、十字架上の主が聖父に捨てられている今、死の現実に戦慄し、その物凄さに絶叫しておられる。
主が、50節 「もう一度大声で叫んで、息を引き取られた」時の、十字架上最後の言葉は、ルカの福音書 23章46節 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」だが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びの後、二つの叫びヨハネ 19章28節( ※ )、30節】があった。
その ※ 「わたしは渇く」に、神に捨てられた苦悩の現れが !
それは、究極の地獄で味わう経験を意味し、ルカの福音書 16章19節~31節のたとえ話に出て来る 《 地獄の実態 》 がそれなのだ。
マタイの27章に戻ると、主のこの叫びは、45節 「十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた」間でのこと。この暗闇について、クルムマッハーは、古い伝承を引用して、「ディオゲネスは、エジプトでイエスの死に先立つ日食を目撃して、『 神ご自身が今このとき苦しんでいるか、苦しんでいる者に同情しているのだ 』 と叫んだ」と言っている。

さて、51節 「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」、この事実に注目してメッセージとしたい。

① ヘブル人への手紙 10章20節 現代訳 「イエスはご自分の体を犠牲にし、聖所と至聖所の間を隔てていた垂幕を取り除き、私たちが神の御許に自由に行けるようにして下さった」こと。 ( 以下、ヘブル人への手紙より )

お渡ししました幕屋イラストのプリントを参照して頂きたいのですが、【9章7節 「第二の幕屋( 至聖所 )には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」とある。】
ところが、10章1節c 「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」、4節 「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」というものだった。続5節~14節 「ですから・・・」と、主によって新たな道が開かれることになったのだ。

② この事実によって・・・

ヘブル人への手紙 4章14節~16節 「私たちのためには、もろもろの天を通られた【人となり、試みに遭い、身代わりの死を味わい、復活し、昇天された】偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。・・・ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵み【霊的必要の全て ⇒ 血潮による罪の赦し、きよめの恵み】をいただいて、おりにかなった助け【時宜を得た助け ⇒ その都度その都度、ちょうど私たちが必要とする特別の援助】を受けるために、大胆に恵みの御座【至聖所の血潮の注がれる契約の箱のふた ⇒ 贖罪蓋】に近づこうではありませんか。」に従うことの出来る者とされた。


※ 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、最早、神に捨てられたという極限状態での苦悩は、神の臨在から永遠に引き離されたという実感にあったと考えられるが、私たちは最後に感謝したい。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、最も慕わしいお方・聖父を「わが神」とでしかお呼びできない状況にあられても、唯、そのお方に対する信仰だけはお捨てになられなかったということを。何故なら、最後の最後のおことばが、その時の「わが神」ではなく、ルカの福音書 23章46節 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」だったからである。即ち、その呪われた瞬間でも、苦悩の真っ只中にあっても、私たちの救いの為に、ご自身を復活させる聖父を信じ抜かれたことを。
ヘブル人への手紙 12章2節、イザヤ書 53章11節。

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