聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 120


マタイの福音書27章33節~44節

先週は、夜を徹して行われた不条理の裁判で死刑判決が下されて後、拷問を受けられた主がゴルゴダに向かわれた時のこと。32節、「シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。」という各福音書で一節でしか語られていない出来事ではあるが、決して軽く見過ごしに出来ない主の御心があると学んだ。
シモンは、主が背負っておられた十字架を「むりやりに背負わせ」られた人物として登場するのだが、彼は道半ばで伏し倒れる主に代わって十字架を背負うよう強要する兵士から逃れようと、必死に抵抗したのだ。
しかしシモンがもしあの時逃げていたならば、決して経験し得なかった経験・永遠的祝福に与った事実を考えた。
「シモンというクレネ人」とは、北アフリカのクレネ出身のユダヤ人を意味するが、シモンは「アレキサンデルとルポスとの父  ※ マルコの福音書 15章21節」とあることから、あの出来事によって救いに与り、家族を主に導いたことになると見た。
聖書はこの事実を、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」によって、息子ルポスの母はシモンの妻、家族皆が、伝道者パウロの働きを陰で支えていた器と伝えている。何という祝福の流れが !
主の肩から十字架を取り上げて 《 自分が担うとは滅相もない 》 と、抵抗した出来事を想起する都度のシモンの感動は如何許り !? 本来、自らが負うべき当然の報いを、罪人の救いを思い描きつつ、喜びの内に引き受けて下さった主の犠牲故に。

※ シモンの感動は、私たちの経験でもあると感謝したい、と。


今朝は、最も見るに忍びない光景を見なければならない。
ゴルゴダにお着きになられた主が十字架刑に処せられた場面をであるが、主を取り巻く人々の其々が、主に思いのままに言いたい放題の悪態をついている。
39節~40節 「道行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『 神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。 』 」/41節~43節 「同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『 彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。 “ わたしは神の子だ ” と言っているのだから。 』 」/44節 「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」と。
彼らに共通する罵りの言葉は、「自分を救ってみろ」である !
ところがこれらに応じようとなさらない主を見た彼らは、苦しみに苦しみを加えようと必死に厭味を込めて、「他人を救ったが、自分は救えない」と叫び、更には「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」と、苦しめても平然としている主に悔しさを露わに。
こうして罵倒されている主には、彼らの憎悪を満足させるに十分な惨めな有様があるにも拘らず、その上に加える仕打ちは、人の罪の何というおぞましさ。というのも、み体から着物を剥ぎ取られた主は、尊厳を剥奪された晒し者なのだ。

私たちは、その主を見るのに耐えられるだろうか ?
その場に居合わせていた母マリヤにとっても、あのエルサレムの宮での予告通り、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。 ルカの福音書 2章35節」との厳しい現実が突き付けられている。
ところが何ということでしょう ! その極限状態に在る主は、その私たちに 《 救いの光を放たれるご自身を 》 現しておられるのだから。彼らが嘲笑して、「他人を救ったが、自分は救えない」と言った言葉から、いみじくも 《 主の生き方そのものを 》 言い当てさせたという奇しさをもって。
それを、44節 「同じようにイエスをののしった」強盗の一人が、回心したという事実に見てメッセージとしたい。
この出来事は、ルカの福音書 23章39節~43節に言及されているが、彼は、処刑された主のご様子を隣で一部始終見ていたのだ。

① 34節 「苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。・・・それをなめただけで、飲もうとはされなかった」主を。

「苦みを混ぜたぶどう酒」とは、鎮痛剤・麻酔薬であるが、手荒くあしらうローマの兵士たちにも、死刑囚に対する一抹の同情心あってのことと考えられる。
主はそれを「なめただけで、飲もうとはされなかった」とあるのは、差し出されたぶどう酒に表された好意を無闇に退けようとはなさらず、敵対する者の好意を好意として受け止められたということ。しかし、聖父に委ねられた使命を全うするのに支障なきようにとの心構え、意識を鮮明にして置こうとの聖父への賢明な従順の姿勢が読み取れる。
何故ならローマ兵の親切の背後に、いつも黒幕として存在する暗闇の勢力を知っておられるからだ。十字架の死に至るまでの忠実さを身を以て示しながら、聖父に従わせまいと最後まで執拗に誘惑するサタンの手口を警戒される姿勢なのだ。
普通、その極度の苦痛を和らげるぶどう酒を欲しがるのに、受けはしたものの飲もうとされなかった主に不思議を。

② ルカの福音書 23章34節 「そのとき、イエスはこう言われた。『 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。 』 」と、刑が執行されるや否や、こう祈られた主を。

回心する強盗の一人も又、その初めにおいては他の人々同様、悪口雑言を言っていた。しかし徐々に、主に惹き付けられて行くのだ。
実にペテロの言っている、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは・・・。 ペテロの手紙 第一 2章23節~24節」を目の当たりにしたからである。
彼は勇気を得て突如、ルカの福音書 23章40節~42節 「ところが、もうひとりのほうが」と、犯罪人の一人を窘( たしな )め、遂には主に憐れみを求めて、「・・・私を思い出してください」と祈り始めた、彼のこの姿勢こそ主の求めておられる謙虚な祈りである。
主の彼への答えは、永遠の赦しと命の約束である。


※ 嘲笑にも怯( ひる )まず、文字通り 《 他人を救って己を捨てられた主 》 の愛が彼を捕らえたと覚えて、主の歩みに近付きたい。

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