イースター記念礼拝


『 ヨハネの黙示録 』 より 1章9節~20節

今朝は、主の復活を記念するイースター礼拝です。新年度の踏み出しの日でもあることを覚えて、復活の主が 《 17節c~18節 「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」と 》、使徒ヨハネを激励された出来事に注目して、メッセージをお取り次ぎ致します。

① ヨハネが、主の「恐れるな」との顕現を受けたのは、《 何時、何処でのこと 》 だったのか !?

9節 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐【持久力、堅忍不抜( 我慢強くこらえて、心を変えない )】とにあずかっている者【共同分担者】であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」とある。即ち、神のことばを宣べ伝え、イエスについて証しした為に 《 政治犯〈 皇帝礼拝に服さない為 〉の流刑地として用いられていた 》 パトモス島で、島流しの刑に服していた時に、である。
他の使徒たちは皆、ペテロをはじめとして殉教の死をもって早くより順次取り去られ、使徒として残るは唯独り。長寿をもっての殉教の日々。島流しに服している自らの境遇に在って、教会の安否を気遣う彼の心境は如何許り !?

② 主のその顕現は、どのような形でなされたのか !?

その残酷極まりない迫害の真っ只中でヨハネは、10節a 「主の日に御霊に感じ」て、《 聖霊によって、未だかつて経験したことのない崇高な霊的経験に与った 》 のである。
「主の日」とは日曜日のこと、パトモス島に身を置きながらも、礼拝の為に群れ集っているであろうエペソの聖徒たちに想いを馳せていたに違いない。想いは羊の群れの生存如何にあるから。
ヨハネは、続いて「私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた」と言っている。その声は、11節 「あなたの見ることを巻き物【1節の「黙示( 聖なる奥義の除幕 )」であり、神が今まで覆って隠しておられた聖なる奥義を、ご自身が時至って明らかにされた】にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」であった。
その除幕は極めて厳粛であったに違いない。その声から、尋常ではない予感がして、ヨハネは、12節 「私に語りかける声を見ようとして振り向いた。」とある。恐る恐るといったところではないか。その時目にしたのが、13節 「人の子のような方」、主であるが【十二弟子が十字架の死の三日後にお会いした復活の主】、その姿は変貌された人の姿である。
しかし、「・・・ような」とは ? かつては 《 主の神としての輝きが、人の子としての人間性の中に隠されていた 》 が、今は 《 主の人間性が、神的輝きの中に隠されている、神的栄光をもって覆われている 》 と見た、ヨハネの感動が伝わって来る。そのお姿がどれ程衝撃的であったかについては、17節a 「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」と言っていることで想像することが出来る !
人が、神の聖なる臨在に触れる時、その荘厳さに耐えられず、自らが全くの無に等しい存在でしかないことを衝撃の中で知る。ダニエル書10章2節~9節の、ダニエルの経験も同様。ダニエルが出会ったのは、受肉前の主ご自身だとされているが、意識を失って、地に倒れたとある。イザヤも又、主の聖なる臨在に触れた時、「ああ。私は、もうだめだ」と絶叫した( イザヤ書 6章5節 )。神の荘厳さに罪人は耐えられない、ということなのだ。

③ 復活の主は「恐れるな」と仰ったが、使徒ヨハネは何故、恐れなくて良いのか !? 何を恐れなくて良いのか !?

それは主が、「わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」と 《 ご自身がどのようなお方であるか 》 を確かな証拠をもって明確にして下さったからである。
主はご自身を、「最初であり、最後である( 永遠者 )」と証しされ、死の必要などあり得ない神であると証しされた。ペンテコステの日にペテロが説教 《 使徒の働き 2章22節~32節、※ 24節 》 で証言した通りである。
実際、主が人の子として十字架でご自身を捧げられた時、いったい誰がこの主をそのようなお方として敬い、礼拝すべきお方として畏れたというのだろうか ?
敬意どころか、最悪の「十字架刑による死」をあてがったのが私たちなのだ。しかし主は、神であるにも拘らず、限られた三十三年間、人の子として 《 罪人からのこのような扱いに悉( ことごと )く甘んじ、むしろ彼らの為に聖父の憐れみを求めて祈りつつ 》 死を全うしてくださったお方なのだ。
しかも主の死は、私たちが受けるべき呪いの死を引き受けられた身代わりの代価に過ぎなかったのに。※ 24節 「死につながれていることなど、ありえない」お方は、復活によって人類の 《 「死」と「ハデス ⇒ 黄泉【不義なる者の中間的住い】」との 》 決定権を握っておられるとの明確な宣言が続く。

それ故、ヨハネは最早・・・

a. 《 罪の報酬である死 》 を恐れる必要がない。
私の為に死んでくださった主は、「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」と宣言し、へブル人への手紙 7章25節 「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられる」お方だから。

b. ヨハネをはじめとする教会が、ローマ帝国の残虐な迫害下にあっても、恐れる必要がない。
マタイ 10章28節~33節 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘ【永遠の刑罰】で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあるから。

 
※ 復活の主の 《 神たる事実を覚えて 》 信仰を新たに !

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