エゼキエル書2章1節~3章3節
宣教の拠点を栗林( りつりん )からこの地・国分寺に移転してから、15周年を記念する朝、改めて主の重荷である宣教の観点からみことばをお取次ぎさせて頂きたいと思います。
1998年5月20日、礼拝後の役員会で 《 その一か月前の事、マタイ 5章14節~16節 「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」との聖句が、群れに与えられているように思うとの 》 重荷を打ち明けてから、《 宣教の拠点移転問題 》 の取り組みが始まった。実際、主からのこうした指示は、小さき群れにとって途方もない課題とも思われましたが、お従いする選択肢しか持たない群れは励まされ、翌年には実現の運びとなり、今日に至っております。
この「あかりを、枡の下から燭台の上に」とのご指示は 《 自らの信仰を維持するだけの生活を一転させて、自らの内に灯されたあかりを、隣人への関心に向けるようにとの宣言 》 だった。群れに連なるお互いのうちには、宣教の必要の為にとの意識が高まり、自分の必要に宛がって来た物の中から捧げさせて頂きながら、今朝15周年を記念しております。
群れに宣教への第一歩を踏み出させて下さった主の備えてくださるおことばに耳を傾けたいと思います。
時はあたかも、エゼキエルが意識せざるを得なくされた危機的な国家の有様と同様の時代に、私たちはキリスト者として生かされています。その為、彼に迫られた神の使信を今日的な語りかけとして厳粛に受け止め、誠実にお応えすべく礼拝し、聖餐式に臨みたいと思います。
今朝お読みしたこの2章は、1章1節~3節 「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。・・・はっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。」と、三十歳になったエゼキエルが、主から預言者としての召命を受けて託された時のメッセージである。2節の「五年目」とは、バビロン捕囚( 列王記 第二 24章10節~16節、B.C.597年に、14節 「すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな」捕らえ移されて行った、この中に、25歳だったエゼキエルもいた )から数えてということになる( B.C.592年 )。
エゼキエルに語られた主のメッセージは、現代のキリスト者であるお互いにも又、託されているメッセージである。何故なら、キリスト者には聖書が託されているからである。
① エゼキエルはどのような人々の中に遣わされたのか ?
2章3節 「わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。」、2章4節 新共同訳 「恥知らずで、強情な人々のもとに・・・」、2章6節 「あざみといばらがあなたといっしょにあっても〈 傷を受け 〉、またあなたがさそりの中に住んでも〈 命の危険に遭遇 〉、恐れるな。彼らは反逆の家だから」で明らか。
私たちの周囲も又、ローマ 1章18節~23節と同様なのだ。国の行事の全ては異教一色。神社参拝により、神に仕え、隣人にも誠意を尽くしていると自負する国民の間に、私たちは主を神として礼拝し、生活している。
敬虔の形が仮にあったとしても、創造主の語るところを無視した上での全ては、自己陶酔的・自己満足的な宗教心でしかない。何故ならば、神の御心に聞くこともなく、自己流で神を求めているに過ぎないからである。それを、少しでも正そうものなら、「あざみといばら」がもたらす傷を負わせ、「さそり」にも象徴される致命傷を負わせようと図る。
かつて日本に入国した宣教師たちは、「あざみといばら」、また「さそり」による脅迫、迫害を余儀なくされた。「わたしにそむいた。今日もそうである。」とは、この日本も例外ではない。
② エゼキエルの使命は ?
2章5節 「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。( 自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう ─ 新共同訳 )」と語られた、ここにある。
主が語られた、ヨハネ 13章35節 「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」に一致する。
ということは、預言者また弟子たちを従わせている権威あるお方、預言者また弟子たちによって崇められ、慕われている至高のお方がおられるということを人々が知り、反逆の民をして、遂には神を認め、神を畏れ、神に立ち返らせるという、宣教の使命である。
2章8節 「・・・反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。」とは、至上命令であり、徹底した服従をもって為すべき使命がここにあった。
③ エゼキエルは 《 その使命をどのようにして 》 果たすのか ?
a. 主がエゼキエルに語られるのに、2章1節、3節、6節、8節、3章1節、3節 「人の子よ。」と【この書では計87回出て来る】、何度も呼び掛けられたことから、彼は 《 自らの人としての弱さの何なるかをしっかりと自覚する必要があった 》 ということではないか !
2章1節~2節 「立ち上がれ。・・・その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。」とあるのは、エゼキエルが自らの虚しさを知りさえすれば、聖霊が彼を立ち上がらせ、主の使命に叶わせるとの保障である。
b. 2章8節c 「・・・口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」、3章1節 「この巻き物を食べ」、同 3節 「この巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」に従うこと。
「巻き物」には、二通りのメッセージがある。2章10節 「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」という 《 罪が扱われることによる神の御心 》 と、3章3節c 「それを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」という 《 福音経験 》 である。
エゼキエルは、明確な福音経験に与りながら、罪を扱われるお方の重荷を厳粛に受け止め、しっかり責任ある態度で臨むようにと指導された。聖書を受肉させる生活を。
c. 2章6節 「恐れるな。」とは、この先、エゼキエルが恐怖心に襲われる可能性を読まれてのことであるが、恐れを恵みによって克服すべきと。
※ 「人の子」との自覚に与り、主の証人としての派遣を。
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