ペンテコステ記念礼拝


『 ガラテヤ人への手紙 』 より 6章1節~5節

今朝はペンテコステを記念して、「御霊の人であるあなたがた」ということについて考え、聖餐式に臨みましょう。

パウロから「御霊の人であるあなたがた」と呼ばれたガラテヤ人は、手紙の内容からして、決して満足の行く霊的状態にあったとは思われない。
何故なら、冒頭の1章6節 「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」に始まる文面には、かなり厳しい響きがあるから。
しかし、さすがは牧会者パウロ。ガラテヤの群れの羊を思い遣っての言葉に他ならない。それは自戒を込めて、続く8節~9節と言葉を重ね、「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」と、羊の霊的健康を脅かすような者は、如何なる者であれ許されないとの熱意。
更に、「ああ愚かなガラテヤ人。」で始まる3章1節~5節は、彼らが霊的逸脱状態のままでいることを許すまいとする、牧会者の居ても立っても居られない情熱の迸( ほとばし )り。4章12節~20節 「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。・・・15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。」/5章7節~12節 「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。・・・」と。
実に「御霊の人・・・」とは、羊を迷わす指導者に感化されて 《 憂うべき霊的状態にあるガラテヤの人々 》 のことなのだ。

この「御霊の人」と呼ばれている人々に、私たちが思い描く 《 良く出来た人 ? 》 とは言い難い現実を見たが、それでも、詳訳 「聖霊に応答し、聖霊に支配されている人々」のことで、5章25節 「もし私たちが御霊によって生きるのなら ⇒ 私たちが御霊によって生きる者とされているのだから」と、「御霊によって生きる者」を意味する。更に噛み砕いて味わうならば、《 私たちの今日を生きる力も、日々何らかの手応えを得ることにおいても、全て内住の聖霊に力の源を持っている、置いている者 》 ということになる。
事実、使徒の働き 1章8節 「・・・聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」との約束の如く、弟子たちは、力である聖霊ご自身を受け、その時以来、聖霊の力ある働きを内外に経験して生きる者とされたのである。
何と言っても、まずは、ペテロの変えられた生涯において顕著。使徒の働き 2章14節から、聖霊を受けたペテロの説教が始まるが、「ペテロは十一人とともに立って( ※ 押し出されて )、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。」とある。
あの十字架の日の早朝、自らの命を救う為に、主を知らないと言い放ったペテロが、聖霊に押し出されて人々の前に立ち上がらせられているとは !
やがて迫害を受けることになるが、同 4章13節 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」、14節 「そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」と。

さて、「御霊の人」としての実際について :

① 5章25節 「・・・生きるのなら( のだから )、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」に従う人を意味する。このことは、16節 「御霊によって歩みなさい。」、18節 「御霊によって導かれるなら・・・」と、重ねて勧められている。

《 導かれ、進もう、歩みなさい 》 とは、聖霊と歩調を合わせ、聖霊の導かれるがままに従うことを意味する。その為には、聖霊の内住をお認めし、聖霊の導きを絶えず求める謙虚さが必要である。聖霊の語られる声に敏感であり、何時でも従おうとして待機する姿勢が肝要であると。
この霊的営みを日常生活で実践するか否かは、信仰生活の死活問題。何故なら、5章16節 「・・・歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」との祝福がそこにのみあるから。
「肉の欲望」とは、19節~21節に羅列されている性質のことであり、聖霊の実( 22節~23節 )とは相容れないもの。これらの性質からの解放が約束されているというのですから。

② その恵みを自らのものとする為に、5章24節 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」に生きる人。

唯ここで、【聖霊によって歩むキリスト者は、もう決して、肉的な刺激とか欲望を感じなくなると言っているのではないということを】理解しておきたい。現に冒頭で触れたように、幾らでも、誤った方向に歩みを進める危険性と可能性を生涯持っている。問題は、肉的刺激なり欲望を感じた時、その時にどう選択し、何を願い、何を求め、どのようになりたいと意志するのか ? にある。
この5章24節の実践にこそ、解放される鍵がある。十字架は、私に代わってキリストの死んで下さった場所である。と同時に、私も又、キリストと共に死ぬ場所である。
もし「情欲や欲望」を感じたならば、その時、キリストと共に十字架に付けるその都度、聖霊は十字架の血を以て清め、ご自身、その者の心に充満して下さる。その上、内住の聖霊は、私たちの内に「聖霊の実」を結ばせ( 5章22節~23節 )、主の似姿へと変え続ける為に、日夜労して下さるお方なのだ。

③ 6章1節 「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」、2節 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」に召されている者。

誰もがそのようなことに召されてはいない、という意味が込められている。「御霊の人」であることに限られている。どんなに人間的正しさがあっても、それが資格なのではない。自らの弱さを知り、何事も主の如く、聖霊によらない限り何事もできないとの自覚にある者でなければならない。
パウロのこの忠告【 自分自身も誘惑に陥らないように・・・  りっぱでもない自分 負うべき自分自身の重荷がある】の意味するところを知る者こそ、兄弟に有益な存在となるのだ。


※ 「御霊の人」としての歩みに心したい。


この記事へのコメント