聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 57


マタイの福音書12章46節~50節

先週は、主の復活を記念して、パウロが力説している「キリストとその復活の力」にいて考え、キリストと共に十字架で死に、キリストと共に復活に与るという生活の再確認を致しました。
今朝は、再び 『 マタイ 』 に戻ります。先回は、43節~45節の聖句について、《 イスラエル民族の過去・現在・未来のあらましを、譬えで述べたもの 》 として学び、そのおことばをもって、主が律法学者、パリサイ人たちの信仰を牽制された内容に触れました。
過去、イスラエルは、43節 「汚れた霊が人から出て行って」という経験をした。奴隷のエジプト時代からバビロン捕囚時代までの長きに及んだ罪〈 偶像礼拝 〉は、捕囚によって、捨てることに。ところが、偶像礼拝の罪は捨てたが、又しても、新たな罪によって悲しい事態を招くことになったとの譬え。

ⅰ 44節a 「そこで、『 出て来た自分の家に帰ろう 』 と言って、帰って見ると・・・。」
汚れた霊が、住むべき場所を求めて経巡り歩いているので警戒を。

ⅱ44節~45節b 「・・・家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、・・・みなはいり込んでそこに住みつくのです。」
自らのうちを占領していたある罪を悔い改めて赦しを経験したならば、その心は聖霊に支配されて行くこと【光の中を歩む生活 ⇒ ヨハネの手紙 第一 1章7節】に十分留意しなければ、何時でも後戻りする傾向にあるので警戒を。

ⅲ 45節c 「そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪く」なるとの事実に警戒を。

※ 外的な罪からの救いの後、聖霊の満たしに無頓着である為に生じる、頑迷/冷酷/傲慢/偽善という悪質な内的罪に警戒をと。


今朝は、46節 「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。」という場面でのこと。そこで現された、主の立ち居振る舞いに注目したい。

まず何故、肉親がイエスを訪ねて来たのだろうか ? 『 マルコ 』 の並行記事に、その手掛かりがある。3章21節 「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『 気が狂ったのだ 』 と言う人たちがいたからである。」、22節 「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、『 彼は、ベルゼブルに取りつかれている 』 と言い、『 悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ 』 とも言っ」ここに、その理由がある。
主は、「ベルゼブルに取りつかれている」と言って主を非難する人々と面と向き合い、彼らを厳格に扱っておられる。
ここに、31節 「さて( その時 )、イエスの母と兄弟たちが来・・・」たのだ。即ち、母にとっては息子、兄弟たちにとっては兄を、主への風聞に耐え切れず、「連れ戻そう」として訪問して来たのである。
『 マタイ 』 に戻りましょう。このイエスの母と兄弟たちの訪問は、極めて自然なことの様にも見受けられる。しかし、主は彼らに直接会おうとはなさらずに、唯、48節 「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と仰っておられる。主のその御思いに学びたい。

主の人の子としての意識は、絶えず、〈 全ての人々を聖父の為に聖別する 〉という事にあった。

つまり、嬰児イエスを身ごもったマリヤをも含む全ての人々を、である。マリヤには、嬰児を宿すという特権が与えられていたとは言え、その親子関係が例外を許すものではないという認識である。
ある時、人々が、ルカ 11章27節 「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」と叫んだ時、主が即座に、28節 いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と正されたことで明白。
この事から、少なからず、母マリヤを羨む女性が存在していたと考えられる。主は 《 人が関心を寄せがちな部分が何処で/人が肉的煩わしさによって、如何にもろくも誘惑に陥るもので/何が、人の本来求めるべき事柄から逸脱させるのかを 》 ご存知であられた。罪人を配慮されてのことなのだ。
同時に、自らの母を、ヨハネ 2章4節 「女の方。」と呼ばれた事についても、一見冷ややかに感じられるが、〈 母親としての息子への情 〉を整理する助けとされた主の配慮と考えられる。
主の働きに関しても、母からの願いだからというのではなく、〈 聖父の御心がどうなのか 〉が問題の決め手であるとの行動を取っておられる。祈られて後、聖父のご指示によるものと確信されてから、行動に移された。
主の 《 十字架を目前にして祈られた 》 祈り、ヨハネ 17章19節 「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」に注目したい。この「聖め」つとは、《 聖い目的の為に区別する/分類する/神のものとする 》 の意。現に、黙示録 5章9節~10節 「・・・その血により・・・神のために人々を贖い、私たちの神のために・・・」に準じる。
主が、48節~50節 「 『 わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。』 それから・・・」と仰った御思いを理解して頂けたでしょうか。

② 但し、母マリヤの 《 主の誕生から公生涯に入られるまでの生活の為に払った 》 労苦とその覚悟とを忘れるお方ではあられなかった。その事だけは、合わせて覚えておきたい。

それを、ヨハネが明らかにしている。ヨハ19章25節~27節は最期の感動的な場面であるが、「・・・イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に 『 女の方。そこに、あなたの息子がいます』 と言われ」時のこと。
マリヤは預言者シメオンから、この日に備えて、ルカ 2章34節~35節 「・・・剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と予告されいた。主は、遂にその日を現実、迎えることになった母への配慮を怠らなかった。主は、50節 「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも・・・」と、母マリヤを未だ信仰のない自らの兄弟たちにではなく、信頼するヨハネに託されたのだ。それは決して、人間的な関係をもってではなかった。


※ 主は、全ての人々を分け隔てなく、聖父に導こうとしておられたお方。その真剣な眼差しに感謝して、魂を委ねたい。


この記事へのコメント