『 ピリピ人への手紙 』 より 3章10節~11節
主の死者の中からの復活を記念するこの朝、パウロが力説している 《 10節 「キリストとその復活の力」とは ? 》 どのような「力」を意味するのかを考えて、聖餐式に臨みましょう。
10節~11節から( 下記参照 )、如何にパウロが、この「キリストとその復活の力を知」るということに渇いていたかが伺える。
実際パウロは、既に【コリント 第二 13章3節~4節】でその「力」を経験している。「こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」と。
この「神の力」こそ、《 キリストを死者の中からよみがえらせた神の力 》 であり、それをパウロは知っている。しかし、日に日に新たに 《 知りたい 》 と渇望しているということなのだ。
※ ピリピ人への手紙3章10節~11節 詳訳
「【私の心に堅く定めた目的は】彼を知ることです〈 段々と、更に深く、更に親しく彼を知るようになり、更に強く、更に明白に【彼の人格の驚異を】知り、認識し、理解することです 〉。またそれと同様に、彼の復活から溢れてくる力【復活が信者たちの上に及ぼす力】を知るようになり、また彼の死【にさえも似るように】されることなのです。
【私の希望は】私が、出来ることなら、【この肉体にありながらも】死者の中から【私を引き上げる霊的な、また道徳的な】復活に到達したいということです」。
「【私の心に堅く定めた目的は】彼を知ることです〈 段々と、更に深く、更に親しく彼を知るようになり、更に強く、更に明白に【彼の人格の驚異を】知り、認識し、理解することです 〉。またそれと同様に、彼の復活から溢れてくる力【復活が信者たちの上に及ぼす力】を知るようになり、また彼の死【にさえも似るように】されることなのです。
【私の希望は】私が、出来ることなら、【この肉体にありながらも】死者の中から【私を引き上げる霊的な、また道徳的な】復活に到達したいということです」。
それでは 《 具体的に復活の力 》 とは ? を考えたい。
① 「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。」 ⇒ 死に勝利した力である。
主が「弱さのゆえに十字架につけられました」とあるのは、《 弱い状態を受け入れたので、十字架に掛かられた 》 の意。主は徹底的に【自己弁護を捨て、完全な敗北者となり、人としての尊厳を剥奪されることに甘んじられ、実に罪人として】辱めの極致である場所に身を委ねられたのだ。
主が、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との永遠の滅びを味わい、悲痛な叫び声を上げる場所、その惨めな辱しめを晒す場所に、である。
本来なら誰しもが、何故あのキリストが十字架に ! と叫ばせる場所なのだ。何故なら主は、主を目の敵にした人々でさえも 《 他人を救っても、自分を救わない 》 と認めた生涯を送られたのだから。
ところがどうでしょう。ここで、《 ペテロのペンテコステ説教で説き明かされた使徒の働き 2章22節~36節 》 に注目したい。
24節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」と。「死」は、「罪から来る報酬 ・・・ ローマ 6章23節」であり、主は罪とは無縁のお方、聖父の御心を愛し、御心には悉く従われた聖なるお方だからである。
② 主を 《 死に勝利させた 》 復活は、主を信じる者をも死に勝利させ、よみがえりの命に与らせた。
ローマ 6章4節~11節 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・・」とあるように。 ⇒ 《 復活の「いのちにあって新しい歩みをする」 》 者とする「力」。
即ち、罪人を「新しい歩み」に導き入れ、新しいいのちの中に生きるようにさせたのだ。
復活は、6節 「罪のからだ【※詳訳 : 罪の道具】が滅びて【※詳訳 : 罪の為には無能・不活動となって】、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」生活に導いたのだ。
「からだ」そのものは、悪ではない。唯、古い自己が神に違反した為、腐敗の一途を辿って来たのだ。「からだ」をその意のままに使うことによって、良くも悪くもして来たということ。
しかし、「からだ」を使う自己が死んで、新しいいのちにあって生きるようにされたならば、必然的に「からだ」は罪から解放されるので、神の御心に従う、18節 「義の奴隷となった」との生活を送るようになる。
パウロの実際生活における変化に明白 :
ピリピ 3章7節 「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」、8節 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っている( ※ 段々と、更に深く、更に親しく知るようになる )ことのすばらしさ( ※ 貴重な特権〈 圧倒的な価値、絶大な値打ち、至上の利益 〉を得た )のゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」との変貌である。
※ この命に与り、与り続ける「復活の力を知」る生活の為には、「キリストの死と同じ状態になり( 徹底的に自己を死に渡し )、どうにかして ・・・ 達したい」と渇く情熱を。
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