聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 11


マタイの福音書4章23節~25節

先回は、バプテスマのヨハネの投獄と同時に、本格的な宣教開始の時を確認された主が《 まず着手されたことは 》弟子を募り、育て、派遣することにあったと学びました。

ここでは四人の弟子が募られていますが、彼らは漁師の仕事をしながらイエスの初期の働きにお供する人々であった。( 彼らが主をメシヤであると認めてから、ほぼ一年間。)

しかし、20節 「彼らはすぐに網を捨てて従った。」、22節 「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」と、この日以降、彼らは主と生涯を共にする弟子としての献身生活に入ることになる。

何故、主は彼らと歩みを共にされてから一年の経過を待って、19節 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」との声を掛けられたのか ? と。

『 ルカの福音書 』 によると、ペテロの「主よ。私のような者から離れてください。 私は、罪深い人間ですから 。」 との告白 が待たれてのことであったからと。 ⇒ この自覚なくして、訓練の目的は果たせないからに他ならない。

先聖日のペンテコステ記念礼拝でも、この一点に触れました。イザヤに対して、主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と声を掛けられたのも、彼が、主の聖なる臨在に触れて「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者」であるとの自覚に立った時にであったと。 既にイザヤも、預言者としての奉仕に携わり、主の啓示に与っていたが、この自らの罪深さに絶叫して初めて派遣の備えが !


※ お互いの姿勢に重ねて考えさせて頂きたいと。



今朝は、23節 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」と、主が開始された働きに注目したい。

この事は既に、14節 「預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。」と言及されていた通り、宣教の拠点を13節 「 カペナウム 」に置いて始められた働き である。 ⇒ 参・【ガリラヤ伝道】4章12節~14章くらいまで。


《 イエスの働きの形態 》

a. 行動範囲 : 23節a

ガリラヤ全土を巡って」と、極めて狭い地域での働きに専念しておられる。東西南北20~30キロ程でのこと。 時間的には、やはりこの期間もほぼ一年間。 

⇒ 15節 「 ゼブルンの地 ( 西側 ) とナフタリの地 ( 東側 )【ガリラヤの大部分を占めている二つの部族の地域】 、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人 ( ユダヤ人よりも異邦人が多かったことによる ⇒ アッシリヤが人々を連れて来て住まわせたため ) のガリラヤ 」での巡回伝道。

b. 働きの内容 : 23節a-c

① 「会堂で教え」。
「会堂」とは、ユダヤ人が捕囚という憂き目を経験する中で、散らされた彼らが共に集まって礼拝することが出来るようにと求めて建てた集会所のこと。この会堂は至る所に存在し、ユダヤ人の信仰と生活に大きな影響を及ぼしていたものと考えられる。

イエスは( 後、使徒たちもこうした会堂を宣教拠点としていることが 『 使徒の働き 』 に出て来ている )、この会堂を利用されては旧約聖書を説き明かされた。ルカ 4章16節~21節では、『 イザヤ書 』 を開いて教えておられるが、それは、ヨハネ 5章39節 「その聖書が、わたしについて証言している・・。」に基づいている。ルカ 24章27節 「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」ともあり、「教え」とはご自身の証しである。

② 「御国の福音を宣べ伝え」。
17節には「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」とあるが、旧約聖書で預言されたことが成就したことを伝えながら、悔い改めを促し、御国に入る備えをするようにとの勧めである。

③ 「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。
⇒ このことは、ヨハネ 2章11節 「イエスはこのことを最初のしるし( ※ 証拠としての奇蹟 )としてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあるように、イエスを救い主であるとの事実を裏付けるためのしるしである。このことについては、マタイ 11章4節~5節 「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き・・・」、へブル 2章3節~4節 「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、・・・あかしされました。」ともある。

ですから、イエスの奇蹟は、ご生涯の目的ではなく、ご自身が救い主であることを証言するためのもの。そのために主が、しばしば奇蹟に与った人々には【黙るようにと】忠告しておられる記事を見るのは、履き違えのないためにである。

もし、私たちが主を《 問題を解決されるお方として 》求める傾向があるならば改めるべきである。問題解決のために、祈って何とかして頂こうと考えるよりも、問題を通して明るみにされるお互いの《 罪の事実からの救いを明確にしさえするなら、解決される 》との認識に立った方が良い。


《 イエスの働きの成果 》

24節 「イエスのうわさはシリヤ全体に広ま」り、遂には、25節 「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」と、その影響は驚くべき広がりである。

※ 【ガリラヤ伝道 ⇒ 過越の祭りのために年毎エルサレムに上った時の働き】があるものの、主の働きの拠点はあくまでも、ガリラヤである。ここに、ほぼ160キロの距離をものともせずにやって来て「つき従った」というのだから影響は甚大である。 

使徒1章8節で主は、「聖霊が・・・臨まれるとき・・・エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と仰っておられるが、実にご自身において然りであった。この「エルサレム」とは、最も近い関係にある人々への証しであり、ここでの着実な証しがあった上で「地の果てにまで」の広がりがあるとの宣言。

ガリラヤから発信された福音がユダヤ全土に届けられ、遂に、「地の果てにまで」と、私たちにまで及んでいる。


※ 大それた事でではなく、日々の地道な歩みでの証しを !


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