イザヤ書6章1節~8節
先聖日は、先駆者ヨハネの働きに終わりが告げられたのを見て取られた主が、遂に本格的な宣教の働きを着手するのに《 まず、手掛けられたことは何であったのか 》に注目した。
主の働きは、たった三年余でのこと。その間の行動範囲は、限られたガリラヤ地方を拠点とする「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」である。にも拘らず、担っておられる責務は、人類の贖いという途轍もない大役。
その答えは、 『 マタイの福音書 』 4章19節 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師に・・・」と弟子を募り、育て派遣することに。
主のこの言葉掛けは、実は、主が弟子たちと初めに出会った時から【『 ヨハネの福音書 』 & 『 ルカの福音書 』 によると】、少なくとも公的生涯三年余の内、既に一年は経過していることがわかる。その一年間彼らは、弟子として主の行くところに追従していたが、漁師の仕事に就きながらお供していただけの事。
それは何故 ? 『 ルカの福音書 』 5章1節~11節 を見ると、主の扱いに与ったペテロに、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」との自覚を見届けるまでは、主は「わたしについて来なさい」と仰るのを、控えられていたのだ。罪深さの自覚を待ってのこと。この一点の確認こそ弟子としての訓練に与るに相応しい資質だからである。
この宣教手段は、主が私たちにも継承するようにと命じておられる方法であり、『 マタイの福音書 』 巻末の 28章18節~20節 「それゆえ、あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。」である。
※ 私たちも、訓練されて派遣される群れでありたい。
今朝は、主が、ペテロと出会って一年程経ってからのこと、彼に「罪深い人間ですから」との自覚を認められた時、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と仰って、弟子として召されたのに同様《 イザヤもそうであったのを見て 》ペンテコステのMessageを。
この 6章は 《 イザヤが、8節 「私は、『 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』 と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『 ここに、私がおります。私を遣わしてください。』 」と 》 主から再派遣された 記事である。
と言うのも、1章1節 「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」と、イザヤは既に、 主からの 「幻」 に与り、預言者として奉仕生活に入っていたからである。
⇒ 1章2節 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」と、天と地を証人として呼び出して、5章以下、主の啓示を伝え、主の重荷を知らされた者として、彼らの罪に嘆息しては【1章4節 「ああ。罪を犯す国、咎重き民・・・」/5章8節、11節、18節、20節、21節、22節】糾弾している。
ところが、こうして奉仕者として生きていたイザヤが、この6章に至って、改めて 「 『 だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』 と言っておられる主の声を聞いた」と。今まで、主の声を聞いていなかった訳ではないのに「聞いた」と。ということは、今までとは違った「聞いた」であり、未だ経験し得なかった主の知り方ということになる。
この経験に導いたものは、イザヤの 6章5節b 「ああ。私は、もうだめだ。」という自らの内的腐敗性の事実に気付かされて圧倒され、打ちのめされたことである。
1章1節で見た幻は、「ユダとエルサレムについて」の啓示だった。そして彼が主の代弁者として民を糾弾してきた。ところが何と ! 6章5節で告白しているように、 自らが「くちびるの汚れた者」であるとわかった今となっては、民を「くちびるの汚れた民」と認めつつも、その間に住んでいる「 くちびるの汚れた 」私を問題にして絶叫している のである。
天使たちの主を畏れて礼拝する礼拝の姿と、彼らの礼拝を受けておられる三位の神の《 聖なる臨在 》に圧倒された。
6章1節 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」との感動。それは、ウジヤの最期を厳粛に看取った預言者が、空白になった【跡継ぎとなるヨタムは未だ幼い】王座を見るに付け、絶望的になっていたであろう彼が、その王座に座しておられる主を見たのだから。
ここに何という激励のメッセージが込められていたことか ! イザヤの苦悶は、1章以下に言及されているユダに蔓延る道徳的腐敗と【それもその筈】、同10節以下〈 宗教家の甚だしい堕落と偽善 〉のため激しく、更に英雄的存在であった王ウジヤの死によって追い討ちが掛けられていたのだから。
王座が空白になった事実で怯えていたイザヤが、主の臨在に触れることになったのだから。後に託されるメッセージ、6章13節 「しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」は、絶望的な国情にあっての希望である。
ところが、主のこの圧倒的顕現が、イザヤに、6章5節b 「ああ。私は、もうだめだ。」との自覚をもたらすことになる ! しかし《 イザヤの駄目だ 》に対する主の応えは、主の言われる「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです。」となっている !
その理由は、その自覚のある所に十字架の恵みがあるから。6節 「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。」とある十字架の恵み ⇒ キリストは祭壇に「世の罪を取り除く神の小羊」としてご自身を捧げて死なれ、復活して昇天し、十日後に聖霊が送られた。
それは、7節c 「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」という霊的経験に導く恵みである。
私たちがもしイザヤのように、率直に自らの内的腐敗性( 滅ぼされるべき罪 )に気付き/それも漠然とした自覚ではなく、「くちびるの汚れた者」とは、ヤコブ 3章2節~12節 「舌は火であり、不義の世界です。」と自らの傾向性が何かを知って告白し( 決して無頓着であってはならない )、そこに十字架の恵みに触れて頂くこと。そこに身を置く者に、7節a 「私の口に触れて言った。」と、聖霊は十字架の血潮をあてがってきよめ、そのきよめた心を占領して派遣して下さる。
※ イザヤの預言者生涯は、この「ああ。私はもうだめだ。」との告白に、十字架の恵みに与るという霊的経験から始まったことを覚え、自らの霊的生活に重ねたい。
この記事へのコメント