聖日礼拝 『マタイの福音書』 より 2


マタイの福音書 1章1節~17節

今朝は、先回 『マタイの福音書』 が宣教的意図をもって書かれたという点に触れましたが、冒頭からの「イエス・キリストの系図」の記録に敢えて《 四人の女性 》を登場させている点に注目しながら、ここにもマタイの宣教的重荷が反映されていると見て Message としたい。

まず率直な感想として、女性が系図に載せられるにしても、何故この四人だけが ? ?  もし、女性を挙げるとしたならば、筆頭に登場するアブラハムの妻【ペテロ 第一 3章5節~6節「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たち」の中にサラが覚えられている】が挙げられても良いのではと単純に考えられるが、この四人が記載されていることに関して、幾人かの聖書学者が言っていることを紹介したい。

① 控え目に言っても異様な現象であり、二重に驚かされる。これら四人の品性である。二人は異邦人、他の二人はイスラエル人であるとは言え、彼女たちの名は汚されていた。タマルは近親相姦の罪、ウリヤの妻は姦淫の相手であった。

② これらの女性は、民族的あるいは倫理的に疑問を生じさせる存在である。四人とも皆、家系図に積極的には載せたくないような背景を持っている。

③ 東洋の系図に女性の名前が記されることはめったになく、しかも、遊女【タマル、ラハブ】、不義を犯した者【バテ・シェバ】、異邦人【ラハブとルツ】が含まれていることは、更に驚くべきことである、と。

何と、異口同音に " 罪ある女性が、系図に掲載されていることへの不思議さ " が訴えられている。しかも言葉を合わせて " 彼女たちが記載されているのは、イエスの救い主としての任務を照らし出し、罪人には救いが、異邦人には恵みがもたらされるという、神の恵みの驚くべき贖いの事実を啓示している" とも言っている。

しかし、どうなのでしょうか ? 贖いの啓示は《 系図には載せたくないという彼女たちの名を挙げることによって初めて 》果たされる、というのでしょうか。


ここで、決して素通り出来ない、罪深い闇の現実を目の当たりにしなければならない。今朝聖書拝読で、1章1節~17節に列挙されている父祖たちの名をすべて読み上げましたが、ここに載せられている父祖たちの罪深さの実態は、人間的には、彼女たちの比ではない。彼ら一人ひとりの歴史を紐解く時間がありませんが、贖いの恵みの有難さを啓示するとするならば、マナセ王の生涯においてこそ顕著ではないか !

歴代誌 第二 33章1節~13節「12節 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、13節 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ」と。彼がへりくだったからこそ神は赦されたものの、人間的には赦されることなど、到底考えられない悪事だったのだから。


このことを踏まえて、3節「ユダに、タマルによって」とあるところに注目したい。詳細に言うと【嫁タマルによって】であり、彼女が遊女の様相で舅ユダの前に現れたことによった。どのような経緯でユダに「パレスとザラが生」まれることになったのかを考えるならば、誰も「タマル」を単に遊女とは言えないのでは ? 遊女を嫁タマルとは知らずに交わった罪が暴かれた時ユダは、「創世記38章26節 あの女は私よりも正しい。私が・・・」と言った。「タマル」の明記は、ユダの不誠実さの暴露をより鮮明にした。6節「ウリヤの妻」の明記も、ダビデが有能な王であったとは言え、忌まわしい罪人であったことの暴露。タマルとバテ・シェバの罪が軽減されるものではなく、各々が神に扱われる事は言うまでもないが・・・。

ここまで学んだ上で《 四人の女性が系図に記載された意図からの Message を 》二点まとめてお伝えしたい。

① 16節「このマリヤからお生まれになった」イエスは、イザヤ9章2節「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と、実に、このような罪の深刻な闇の事実からの解放のために、主がこの世に、人類の歴史の中に突入して下さったとの啓示。

② 主のこのご降誕は、ただ、選民ユダヤ人のみならず、 異邦人にも救い が及ぶための出来事であったとの啓示。

5節「ラハブ」は、エリコの町が陥落した時、ヨシュアの斥候を助けて救出された女性であり、ボアズを産み、「ルツ」を嫁とし、ダビデの誕生を見る家系の中にいる。この「ルツ」はモアブ人であり、先にはユダヤの地からモアブの地に身を寄せていたナオミの嫁であった。ところが、夫と息子を失ったナオミが故郷ベツレヘムに戻る際、嫁に実家へ戻るよう勧めたが、「あなたの神は私の神です」と信仰告白して、ナオミに付き添った女性である。


※ この事実からも、 『マタイの福音書』 は宣教的な書である。


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