夕拝『詩篇』からの霊想〈138篇〉


「私は心を尽くして感謝し、神の御前でほめ歌をうたいます。1節 新共同訳」

ダビデの《 主に感謝し、賛美する 》信仰は、決して自らの内にのみ留まるものではなく、「地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。4節a」と確信している。

それは、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。彼らは主の道について歌うでしょう。4節c、5節a」と言って、誰でももし、主の「栄光」の事実に触れ、その偉大さに気付きさえするならば、それは当然の結果なのだ、「主の栄光が大きいからです。5節b」と。

しかし現実は、「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。詩篇2篇2節」であり、イザヤの嘆き 「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。イザヤ53章1節」 は、ここにあるのでは。

その「主の栄光が大きい・・・5節b」とは、主が「ご自身とそのみことばを、あらゆるものに勝るものとされ・・・2節 現代訳」たことによるが、実際、何処に見られるのか ?

①「低い者【低くされている者/謙遜な者】6節b」への「恵みとまこと・・・2節、8節」に。

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。3節/まことに、主は高くあられる【高揚された威光】が、低い者を顧みてくださいます。6節a/私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。・・・あなたの右の手が私を救ってくださいます。7節/主は、私の為に、御心を成し遂げてくださいます。8節a 現代訳」とある。

主の偉大さは、謙る者との緊密な係わりを持って下さるところ(世の賢者には、理解の及ばない─ルカ15章2節)にこそある。

②「高ぶる者・・・6節c」への相応の扱いに。

「倣慢な者を知っておられ【彼らの性質を見抜かれ】ます。6節c 新共同訳/私の敵・・・に向かって御手を伸ばし、7節c」とある。


※「主の栄光は大きい」との事実に相応しい信頼を、主に寄せて歩む者でありたい。


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