「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。1節」
本篇は《 バビロン捕囚によって味わうことになった 》民の嘆きを物語っている。
この嘆き・涙は、彼らの霊的渇きから来るもの→〈 捕囚の民でありながら、生活面では 〉エレミヤの指示 【エレミヤ29章4節~14節──「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になる・・・ 7節」】 によると、安全が保証されていたからである。
この嘆きこそ、バビロン捕囚による〈 主のお扱いの目的であり 〉、彼らをして遂に「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。哀歌5章21節」と祈らさせ、エルサレム帰還が許されることになるからである。
《 民の嘆きを何処に ? 》
①「バビロンの川のほとり、そこで・・・ 1節」とは、人里離れた場所を意味するが、民のどんなにか神との交わりを慕い求めているか、その様子に見る。
②「その柳の木々に 私たちは立琴を掛けた。2節」とは、歌うことへの拒絶を意味するが、主への賛美を余興として「『シオンの歌を一つ歌え』 3節」と冷やかす「苦しめる者たち」の〈 神への侮りに 〉どんなにか耐えられなくなっているか、その様子に見る。
「私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら・・・ 4節~6節」とは、《 神への賛美 》が汚されまいとする主への敬慕の思いである。
③「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』と言ったエドムの子らを思い出してください。7節~9節」との報復の祈りに見るが、新約的には抵抗が・・・。願わくは、あくまでも民は、自らの神への不服従が悪と認めて謙り、破壊した敵については神に委ねるべきでは・・・。
※不服従への鉄槌は、民をして謙りに導いたとの事実を受けて、自戒したい。
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