「あなたに仕える者を恵んでください。そうすれば私は生かされて、みことばに従います。17節現代訳」
この聖句には、《 日々、みことばに従う歩みの為に、〈 豊かなあしらい・恵み 〉を期待する謙虚な姿勢が 》見られるが、こうした「あしらい」に与る為に求められることは ?
①「私の目を開いてください(私の目の覆いを払ってください=新共同訳)。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいこと(驚くべき力=新共同訳)に目を留めるようにしてください。18節」とは、みことばを経験的に知ることへの渇望から生まれる祈りであるが、その為にまず、自分自身の目の覆いが取り除かれる必要があるとの自覚に立っていること。
それは「人が主に向く(悔い改める)なら、そのおおいは取り除かれるのです。Ⅱコリント3章16節」に従い、ダビデのように「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。詩篇19篇12節~13節」の祈りに導かれることに他ならない。
②「たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合っても あなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます(深く味わいます=現代訳)23節」は、自らの関心を〈 目に見える敵の猛威にか、見えざる主の真実=みことばにか 〉の挑戦であるが、「おきてに」置くとの選択を明確にしていること。
主の言われた「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、・・・できる方を恐れなさい。マタイ10章28節」である。
③「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手(良い考え方を与えてくれます=新共同訳)です。24節」との主との交わりを愛する者であること。
※「豊かにあしら」いに与り、みことばに従う歩みを日々、確かなものにして頂きたい。
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