2019年01月23日

クリスマス記念礼拝 『ルカの福音書』 より 104


ルカの福音書23章27節〜31節

先週は、主の死刑を叫ぶ最高法院に屈服したピラトが、遂に主を死刑執行人に引き渡し、処刑場に引かせる場面に注目。
道のりとしては、数百メートルではあるが、前日からの鞭による拷問が主の肉体を衰弱させ、死刑囚が背負わされる十字架の重さに耐えられず、その途中から「田舎から出て来たシモンというクレネ人」が主に代わったという状況である。
ここで、注目したのは、他の福音書で彼が、「無理やり背負わ」されて抵抗した人として出て来たところにである。
主に代わって十字架を背負うことに抵抗したシモンだったが、その彼が永遠的祝福に与ったことをもって激励とした。
マルコは、「アレクサンドロとルフォスの父」と、諸教会にその名を知られるキリスト者となっていたと伝えており、「ルフォス」は、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人」、又、「彼と私の母」とあるのは、十字架を背負ったシモンの妻であり、パウロに献身的に仕えた人物として出て来ているのだから。「十字架を無理やり背負わ」されたシモンとその家族は、何という恵み !! 救いに与ったのだ !!
シモンは、直接主のみ顔を拝し、十字架上での主のおことばにも触れて、主に立ち返ったのだろう !! 彼は後、担うまいと抵抗したあの十字架は、本来自分が背負うべき十字架だったことを知って愕然としたに違いない。無知の故に、抵抗したことを悔いたのだろう。本来、どれ程の屈辱を受けることがあったとしても、当然だとする信仰で主に感謝しつつ、買って出るべきだったとして、信仰を新たにしたに違いない。

※ へブル 13章11〜16節 「ですから私たちは・・・」に従いたいと。


今朝は、処刑場に向かう主の後からついて行った、十字架を背負うシモンだけではなく、27節 「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして」従って行った人々に、ご自身心身ともに力尽きておられる中から振り向いて語られた主の 《 重要なおことば 》 に注目したい。
28節 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と慈しみ深く、しかし「いけません」と言われたおことばに。どう考えても、このことばには単なる優しさではなく、主の叱責とも窺( うかが )える厳粛さがあると見て学びたい。
従って、今朝 《 クリスマスを記念して礼拝 》 を捧げている全世界の、私たち全ての人々に対する警鐘が鳴り響いているメッセージであると。

@ 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?

主はこのおことばを、27節 「イエスのことを嘆き悲しむ女たち」に向けられた。血を滴らせる主は渾身の力をふりしぼって、ご自身に同情を寄せて嘆いている人々の涙を歓迎せずに、むしろ「泣いてはいけません」と退けられた。ここにも、35節で、主に向かって揶揄する人々の声が。「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。『 あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。 』 」で証言された 《 主の生き様の証 》、主に反抗して止まない人々でさえも認めざるを得なくされた主の「他人を救った」という生き様の証を見る。
主は、ご自身のご受難に同情して嘆く嘆きを、黙って聞いていることが出来なかったからである。何という !! とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いであることか !!
確かに主は、聖父から 《 人類の罪への怒りを一手に引き受けることによって 》 呪われ捨てられることへの恐怖故に、「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られたのではあるが、人類の救いの為の最後の試みに勝利されて、羊の為に極みまで心を砕かれたのだ。
主への感傷的にむせび泣く涙を、主は退けられる。
宗教的芸術が、私たちを主への感傷的な涙に誘うにすぎないのであれば、仮にそこに荘厳さ、感情的高まりがあったとしても、ゴルゴダに向かわれる主は退けられる。
主はペテロの手にした剣の一振りによって助けられなければならない惨めな方ではない。その時にですら助けを求めるならば叶うが、それをあえてしなかった救い主だから。
そもそも、ゴルゴダに向かわれる主のご受難が何の為だったのかを考えれば、感傷に浸っている場合ではないから。
イザヤ書 53章4節 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」と思っている限り、私たちは感傷的な域から抜け出すことは出来ない。が、5、6節 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎( とが )のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。・・・しかし、主は・・・彼に負わせた」と分かると事態は変わる。

A そこで主は、28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われた。

即ち、イザヤ書 53章の預言に従って、ゴルゴダに向かわれる主のその無残なお姿が 《 私たちの病、背き、咎 》 故だったと分かったならば、感傷的な思いに浸っては居られないという恐れに見舞われる筈だから、私たち自らの罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29〜31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。
明らかに、その裁きとは、31、「生木にこのようなことが行われるなら・・・」と、ご自身への、人類の罪への聖父の怒りを十字架上で明らかにされるように、自らの罪の事実を認めて悔い改めないならば、その「枯れ木」に対する神の怒りは如何ほどであろうか !!
その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録 6章12〜17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。・・・」の聖句でも明らかにされた。
その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。
主の言われた「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とは、主のご受難に自らが受けるべき罪への呪いを見て 《 罪の事実を認めて、聖前に悔い改めよ 》 である。

※ 心から悔いて流す涙を通して、感謝の涙としたい。

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2019年01月17日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 103


《 待降節V 》
ルカの福音書23章26節

先週は、大祭司の家での拷問後、エルサレム最高法院に連行された主が、ローマ法廷の座に臨まれた ※ 12節 「この日、ヘロデとピラトは親しくなった」との動きから、ローマ帝国にとって 《 主をどう扱うか 》、パウロが言った「・・・このことは片隅で起こった出来事ではありませんから・・・王様がお気づきにならなかったことはない」と迫ったこの言葉と合わせて、全ての人々は責任ある態度が問われていると考えた。

@ 主を取り囲む人々について。
a. 巧妙に罪状を突き付ける最高法院の全議員たち。主の死刑の決定を求め、ローマ政府にとって最も脅威となる政治的告発を企て、2節で三つのローマ帝国への反逆罪に当たるとして出た。主への嫉妬を動機としての殺害計画である。
b. 裁判の最高権威者として立っている総督ピラト。幾度も、「この人には、訴える理由が何も見つからない」としつつも、野望と名誉心の故に総督の立場にしがみつき、総督の執行すべき責任を放棄し、最も不正で悪質な判定を下した。
c. ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパス。9節で悪質な好奇心による質問攻め。その好奇心が満たされなかった時には ※ 11節で主への野蛮な反逆心を露わに。

A 自らの野望に生きる人々からの裁きを受けている主は、毅然たる態度で、イザヤ 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足」されるお方。

※ 私たちは、主に対してどのような態度を取るのか ? 人に対する扱いをもって主への扱いの如何が裁かれるお互いも又、責任を問われる事実に留意したい、と。


今朝は、議員たちの妬みから主を死刑にとせがんだ力に屈服したローマ法廷の最高責任者ピラトが、遂に主を死刑執行人に引き渡し、主を処刑場に引いて行く場面である。
処刑場については、33節 「 『 どくろ ⇒ ゴルゴダ( アラム語ではどくろを意味する音訳 )、カルバリ( ラテン語 ) 』 と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた」と言及されているが、木曜日の最後の晩餐を立ち上がられてからの翌金曜日の処刑に至るまでの道筋を辿ると位置が分かる。cf. プリント 《 エルサレムのイエス 》
道のりとしては、数百メートルだろうか ? 距離的に長いとは言わないかも知れないが、その道のりが如何に厳しく酷く、主には耐えられない程の一歩一歩だったかが分かる。
言うまでもなく、死刑の道具は死刑囚がそれぞれ担うものである為、主も又、担わされた訳だが、主だけは処刑場へ行く途中、「田舎から出て来たシモンというクレネ人」が代わりに主の十字架を担う事態となった。目的地に辿り着く前に、主が死ぬことがないようにと考えたのだろう。
それもその筈。他に十字架を担う二人の囚人がいたが、彼らとは違い、主は裁きの座で拷問を受けておられたのだ。木曜日の夜の大祭司の家での拷問( 22章63節 )に続き、23章16、22節にあるピラトによる拷問、25節b 「他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」とある。
拷問に使われるむちは、残忍な道具だったとされ、短い皮ひものむちで、そのむちの先端には金属や鋭い骨が括( くく )りつけられ、一振りごとに体に食い込み、肉は引き裂かれる。

兵士たちに道中むち打たれながらゴルゴダに向かう囚人たちの中で、ひときわ目立っているのが、血みどろで惨めな極悪人としての扱いを受けつつ歩いておられた主である。
イザヤ書の53章7〜9節 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠( ほふ )り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと・・・」とある記事は、この情景である。
私たちは人々から蔑まれながらゴルゴダに向かわれる主と、現在、歩みを共にしているだろうか ?
実に、私に代わって歩んでおられる主なのだが、私は ?
ここで注目したい。見せ物になっている囚人たちを一目でも見ようと群がる人々の中にいた一人の人、「シモンというクレネ人」にである。他の福音書では、彼が「無理やり背負わ」された人として出て来ることから、彼にとっては 《 とんでもないこと、滅相もないこと 》 としか考えられず、かなり抵抗したことが伺えるのでは ?
彼は、北アフリカからの旅人で、主を見るのも初めてだったであろうし、十字架で処刑される人物との関わりを一体何処の誰が好むというのだ !! 実際、いる筈もないこと !! 何故私が !! と。 
まさか、私たちまで、彼と同じように感じることはないと信じたいが、あえてどうだろうかと、自問自答したい。
たとえば、私たちが悉( ことごと )く主の御心を優先し、主を選択する生活上、主が覚えられた孤独感を味わうことがあるとしよう。
主に従うなら必然的に、主への世の処遇は私にも同様 !!
ある意味で、このシモンは信仰とは無縁だったにも拘らず、そのような事態に遭遇したのだ。シモンが死に物狂いで抵抗するのは当然なのだ。しかし兵士たちからの強引な選びには抵抗出来なかった為、背負わざるを得なくされた。

しかし私たちは、主と共に【他ならぬ、私たちに代わっての屈辱の十字架なのだが】、主に代わって十字架を背負ったシモンが永遠的祝福に与ったことをもって激励としたい。
マルコの記述によると、「アレクサンドロとルフォスの父」とあり、その名を知られるキリスト者となっていたと伝えているからである。「ルフォス」は、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人」と出て来ており、「また彼と私の母」とあるのは、十字架を背負ったシモンの妻であり、パウロに献身的に仕えた人物として出て来ているのだから。
「十字架を無理やり背負わ」されたシモンとその家族は、何という恵み !! 救いに与ったのだ !!
恐らく十字架に処刑される主とは直接的に顔を合わせる機会を得、十字架上での主のおことばにも触れて、主に立ち返ることになったのだ !! シモンは後、むしろ自らが囚人として負うべきだった十字架から逃れようとしたことを悔いて、主を仰いだに違いない。本来、どれ程の屈辱を受けることがあったとしても、当然だとの信仰で、主に感謝しつつ、買って出るべきとして、信仰を新たにしたい。

※ へブル 13章11〜16節 「ですから私たちは・・・」に従いたい。

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2019年01月09日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 102


《 待降節U 》
ルカの福音書23章1節〜25節

先週は、主のゲッセマネの園での捕縛後、主が受けられた拷問の全てについて、へブル 12章2〜4節 「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれ、イザヤ 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみ・・・」の故だったと伝えている聖句と重ねて考えた。
主の「たましいの激しい苦しみ」だったとは !! エレミヤ 31章20節の伝える 《 屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみ 》 なのだ !!
主は、拷問の鞭と辱め、又、66節以下のエルサレムの最高議会における裁判での尋問を受けられるその都度、彼らをそうさせている反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれた。
主は、彼らの詰問にむやみに応えられず、ご自身の立場を明確にすることに専念され、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、主の証言は指導者たちの怒りを引き出し、70節 「では、おまえは神の子なのか」と詰め寄らせたが、更に主は、70節b 「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と宣言された。指導者たちは、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》、遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」とあるように、主はローマの法廷に立つことになった。

※ へブル 12章3節 「あなたがたは・・・反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」との忠告に従いたい、と。


今朝は、そうした大祭司の家での拷問後、エルサレムの最高法院に連行された主が、遂にローマ法廷の裁きの座に連れて行かれた場面に共に臨むことになる。
その為に、23章12節には「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである」との動きから、ローマ帝国にとって 《 主をどの様に扱うかという、ユダヤ人から持ち込まれた問題 》 が、簡単に片付けられる問題ではなかった、一大事だったことに注意を払いたい。
ピラトはローマ帝国がパレスチナに駐屯させていた行政長官・総督・官僚。彼は政治的手腕が買われてか、皇帝から直接の責任を担わされ、最高の法的権限を持っていた。
彼は、その権威の下で派遣された初期のこと、聖所でいけにえを捧げているガリラヤ人を殺害するという無残な事件を引き起こしている( 13章1節 )。彼がパレスチナに派遣された当初、四分化されていたパレスチナの一つガリラヤ地方は、ヘロデ・アンティパス( バプテスマのヨハネを殺害 )の管轄下にあった。ピラトの様々な出方から、両者には行政執行権上のトラブルによる敵対関係があったと考えられる。にも拘らず、主を巡っては、総動員で取り組まれることになったのだ。
パウロの裁きの座での弁明の言葉を思い出して頂きたい。
彼が ※ 使徒の働き 26章19〜29節でダマスコ途上での劇的経験を証した時に、「・・・このことは片隅で起こった出来事ではありませんから・・・王様がお気づきにならなかったことはない」とアグリッパに迫ったこの言葉は、全ての人々は 《 このお方への責任ある態度が問われている 》 と警告していると !!

@ 主を取り囲む人々について。

a. 巧妙に罪状を突き付ける最高法院の全議員たち。
議会は、※ 22章69節、主の「人の子は力ある神の右の座に着きます。」との宣言に激怒し、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」、マルコ 14章64節では「イエスは死に値する」と言って、死刑を確定した。
しかしローマ法廷では宗教的事項による案件では審議されない為、ローマ政府にとって最も脅威となる政治的告発でと企てた。2節、「わが民を惑わし」、「カエサルに税金を納めることを禁じ」、「自分は王キリストだと言っている」と全て、ローマ帝国への反逆罪に当たるとする 《 主への嫉妬を動機としての 》 殺害計画である。
10節 「イエスを激しく訴え」、18、19節 「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」、21、23節 「十字架につけろ」と叫ぶ。
b. 裁判の最高権威者として立っている総督ピラト。
4節 「訴える理由が何も見つからない」としつつも、5節の議員たちからの反論にひるみ、6、7節 「ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送っ」て責任回避を図る。13、14節でも、「罪は何も見つからなかった」とし、20節 「イエスを釈放しようと」し、22節 「この人がどんな悪いことをしたというのか。・・・むちで懲らしめたうえで釈放する」としつつも、最終的には、24、25節 「それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。・・・イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」のだ。
野望と名誉心の故に総督の立場にしがみつくも、総督の執行すべき責任を放棄し、最も不正で悪質な判定を下した。
c. ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパス。
9節 「いろいろと質問した」とは、8節 「イエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたから」と、悪質な好奇心による質問攻め。その好奇心が満たされなかった時には、11節に見る主への野蛮な反逆心を露わにした。

A 自らの野望に生きる人々からの裁きを受けている主は、毅然たる態度で、イザヤ書 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足」されるお方。

議員たちからの ※ 2節の偽証にも、10節の訴えにも、18節 「その男を殺せ」にも、21節の「十字架につけろ」にも、23節の「その声がいよいよ強くなっていった」ことにも、主は何一つ、動ずることなく、為されるがままに。
ピラトからの ※ 3節の問い掛けにも、誠実に答えられた ⇒ ヨハネ 18章33〜38節。ヘロデの質問には、9節 「何もお答えになら」ず、彼の不真面目で、単なる個人的好奇心を満足させるだけのものとの洞察による賢明な対応を。ヘロデと兵士たちからの ※ 11節 「侮辱・・・」にも、動ずることなく、冷静沈着に。あくまでも、彼らを憐れむのみ !!

※ 私たちは、主に対してどのような態度を取るのか ? マタイの25章31〜33節は、人に対する扱いをもって主への扱いの如何が裁かれる光景。責任を問われる事実に留意したい。

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