2018年11月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 96


ルカの福音書22章7節〜23節

先週は、主が二日後には弟子たちとの最後の晩餐を予定しておられる頃の、主を取り囲む周囲の状況に注目した。
2節で、イエスを殺すための良い方法を探していた宗教家たちの、苛立ち露わにされているのが見える。
その彼らにうってつけの人物、3節 「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」が現れ、彼らは大歓迎した。イスカリオテが「十二人の一人」だったと明記されていることに、聖霊の憂い、悲しみを読み取りつつ、何がユダをしてこの 《 悲劇的で大それた行動に出させた 》 のか、それを解く鍵が、3節 「ユダに、サタンが入った」にあったと見た。 

@ サタンの介入について、ヨハネは、ユダにサタンが入ったのは段階的だったと伝えているが、サタンは、神の子たちの神との関係を羨( うらや )み、隙あらばその関係に溝を作り、破綻させることを目的として、じりじりと誘惑するということ。

A サタンの介入は避けられないが、もしユダが初めに感じた 《 肉性の事実を黙認し、放置し続けさえしなければ 》 致命的な結末には至らなかった。にも拘らずユダは・・・。
ユダの肉性はつい先に 《 ナルドの香油を惜しげなく主に注いだマリアの献身 》 が光となって露呈されたが、偽善を装って、マリアを咎( とが )めた為、主の叱責を受けることに。
ヤコブ 1章15節 詳訳 「悪い欲望が身ごもると、罪を生み出し、罪は成熟して死をもたらす」方向に向かう。悪意を抱きつつも 《 しらを切って 》 最後の晩餐の席に臨むユダの結末は闇であっても当然なのだ。

※ 良心に従わない末路の恐ろしさをユダに見て警戒を !! と。


今朝は、主が15節で、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」と言われたその最後の晩餐の席で取り交わされた 《 聖餐式の制定と新しい契約について 》 考えたい。
この場面について、パウロの説明がある。
コリント人への手紙 第一 11章23〜26節で、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『 これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 食事の後、同じように杯を取って言われました。『 この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。 』 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と。
教会は主が制定されたこの聖餐式を、その初めの日から二千年の長きに亘( わた )って執り行って来て、今日に至っている。
教会とは、主から「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と交わして頂いた 《 神との契約関係が結ばれて存在している群れ 》 なのだ。
この最後の晩餐の席を弟子たちとでと切願されたのは、弟子たちと、そしてやがて弟子たちの宣教によって救われるであろう人々( ユダヤ人のみならず、異邦人、そして私たち )との間に、この 《 新しい契約を結ぶという厳粛な画期的な出来事 》 が遂に成立することになると伝えたかったからなのだ。

主が個人的慰めを求められての場ではなく、厳粛な契約を結ぶ為の極めて重要な聖なる場だった。
この過越の祭りは、430年に及ぶ滞在を経ての、イスラエル人のエジプト脱出( 奴隷解放 )を記念する日である。イスラエル人の出国を許すまいとするエジプト王の頑( かたく )なな拒絶に鉄槌を下された神の裁きの日、エジプトの家々からは長子の死を泣き叫ぶ声を聞く中、屠られた小羊の血を見る時、その家を過ぎ越すと言われて、鴨居に血を塗るようにとの指示に従ったイスラエルが救出されたあの夜。
この時のモーセ以来、1500年守られて来たこの過越の祭りは、実に翌日に控える十字架を予表したものであり 《 わたしは実に明日、その実体として肉を裂き、血を流す 》 ことによって成立する契約を結ぶ為に、最後の晩餐を設けられたのだ。
へブル人への手紙 9章15節 「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖( あがな )い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです」と、主が晩餐を ※ 15節 《 切願 》 しておられた理由は、ここにある。
主の言われる、20節 「新しい契約」とは、神が初めの人アダムと結んだ契約に対してであるが、その契約は彼らの違反によって破られた。契約には、契約を結んだ両者との間に、条件が取り交わされ、それを守らなければ刑罰が伴う。創世記 2章16、17節 「しかし・・・食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」。初めの契約は、アダムとエバの違反によって破られ、違反には「死」が報いとなった。

しかしその「死」を主が十字架上で引き受けられたので、裂かれる肉と流される血を飲むなら、永遠の資産相続者となると。
主は実に、感慨深い面持ちで弟子たちに告げられたのだ。
実際、主のこれ程重大な告知を、旧約の預言者たちがこの日に向けて語り続けていたこの畏れ多い告知を、弟子たちの一体誰がその如く知り得ただろうか ?
主に見合った聞き手ではなかったのが十二弟子。
何とその一人は、21、22節 「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります」と。他の弟子たちの、23、24節 「互いに議論をし始めた。また・・・だれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」様子にも不甲斐なさが。
しかし主にとっては、聞き手の現実が如何にあれ、語るのに支障はなかった。15節 「苦しみを受ける前に・・・この過越の食事をすることを、切に願ってい」たのは、実に 《 そのあなたがたとなのだ 》 と言われる。
何故支障がないのか ? 主が、32節 「・・・あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われても謙虚さがなく、33節で豪語するペテロは、主を裏切る。しかしそれと知って、32節 「あなたは立ち直ったら」と言われる主。コリント人への手紙 第一 13章7節 詳訳 「いつでも快く全ての人の最善を極度まで信じ、どんな事情の時にも色あせることのない希望を抱き、あらゆる事に耐え弱ることが」ないと。

※ 主が成立させて下さった「新しい契約」の血に与ることによって、約束された永遠の遺産を相続する者でありたい。

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2018年11月24日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 95


ルカの福音書22章1節〜6節

先週は、オリーブ山での 《 終末を予告する説教 》 に学んだ。
これまでも触れられた 《 エルサレム滅亡の予告に重ねて、将来的ご自身の再臨を見据えて語られた 》 説教である。
8節、偽キリストの出現/9、10節、戦争や暴動/11節、地震、飢饉や疫病、恐ろしい光景や天からの大きなしるし/12節、迫害/20、24節、異邦人によるエルサレム包囲と異邦人に踏み荒らされる事実/25、26節、天変地異であり、規模、発生頻度において深刻化し、諸現象の影響力の甚大さにおいて、極めて今日的に現実問題であると。
こうした事実を前に鳴らされている警鐘として・・・

@ 言及されている 《 時 》 を弁( わきま )えるべきこと。
a. 20節 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」、24節b 「異邦人の時が満ちるまで【異邦人のこの世の権力が支配する全期間】、エルサレムは・・・踏み荒らされます」。A.D.70年ローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊とユダヤ人離散と同時に、主の再臨を意味する。cf. 別プリント【ユダヤ人の国か民主国家か】
b. 22節 「報復の日々だからです」 ⇒ 20章16節の成就。

A キリスト者として心得るべきこと。
a. 12〜19節、迫害の覚悟と自分の命を勝ち取るべきこと。
b. 25〜28節、神の約束に堅く立ち、36節bの、絶えざる神との交わりに生きるべきこと。
c. 34節、生活【交際関係 ? 思い煩い ?】の吟味。「罠」となる。

※ 宮の美しさに感嘆しても( 5節、マルコ 13章1節 )、形ある物の完全な破壊を宣言し、成就されるお方を恐れたい、と。


今朝は、主が二日後には弟子たちとの最後の晩餐を予定しておられる頃、その主を取り囲む周囲の状況に注目したい。
2節には「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである」とあるが、かなりの苛立ちを露わに騒然となって来ている。
エルサレム入京の光景を思い出して頂きたい。
19章37〜40節で、棕櫚( しゅろ )の葉を手にする大勢の民衆たちが「自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、こう言った。『 祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。 』 」と、主が歓呼の声をもって迎えられた時、我慢の限界を超え、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言わざるを得なくされた。
その時、何と !! 彼らは逆に主から窘( たしな )められることに。
彼らの内心は日頃から募る嫉妬心に火がつき、主への殺意が頂点に達しつつあるのだから。
その後の彼らの努力も甲斐なく、ヨハネの福音書 11章47、48節 「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると・・・」と煩うばかり。
19章47、48節 「・・・イエスを殺そうと狙っていたが、何をしたらよいのか分からなかった」、20章19、20節 「・・・イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。さて、機会を・・・」であり、主に接近すればする程、主は力を増し、彼らは衰退の一途を辿り、惨めになっていく。

その彼らに、うってつけの人物が現れたのだ。
その人物が、22章3節 「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」であり、彼の申し出は願ってもない。5節 「彼らは喜んで」とは、これで主の殺害を確信出来たからだ。
イスカリオテが「十二人の一人」だったと明記されていることに、聖霊の憂い、悲しみを読み取れないだろうか。
その憂いとは、主が徹夜の祈りをもって選出された器だったにも拘らず、次代の宣教を委( ゆだ )ねるべく訓練を施された器だったにも拘らず、主からの特権を退けた 《 ユダの後ろ姿を嘆き悲しまれる深い 》 主ご自身のみ思いである。
ユダの名が「主を褒め称える」の意でもあると考える時、両親の期待をも裏切ることになるのだが !!
何がユダをしてこの 《 悲劇的で大それた行動に出させた 》 のかを解くのに、3節 「ユダに、サタンが入った」が鍵である。 

@ サタンの介入について。

ヨハネの福音書は、ユダにサタンが入ったことには、段階的な見方で伝えている。13章2節 「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」、その後、最後の晩餐の席でのこと、13章27節 「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」と。
ルカが伝えたかったことは、これだけの罪を犯すのに、そこに至るまで、絶え間なく主に敵対するサタンの存在である。ヨハネは、この恐るべき事実をより正確に、時間的流れのあったことを伝えている。
サタンは神の子たちを、神との関係を羨( うらや )み、隙あらばその関係に溝を作り、破綻させることを目的として誘惑する。
エバに神への不信感を抱かせ、そそのかして禁断の木に興味を抱くよう誘い込んだ。「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ・・・ 創世記 3章6節」たことに顕著。

A サタンの介入は避けられないが、もしユダが初めに感じた 《 肉性の事実を黙認し、放置し続けさえしなければ 》 抜き差しならぬ結末には至らなかったが、ユダは・・・。

ユダの肉性は、ヨハネ 12章1〜8節の 《 ナルドの香油を惜しげなく主に注いだマリアの献身 》 によって露呈された。
同 6節には「盗んでいた」とあるが、もう既に誘惑に負けていたにも拘らず不正直に秘めており、その穴埋めの為であるにも拘らず偽善を装って、香油を注ぐマリアを咎( とが )め出る彼の貪欲には歯止めが利かない。洞察しておられる主からの叱責に嫌気がさし、悔い改める姿勢は皆無。
ヤコブの手紙 1章15節 詳訳 「悪い欲望が身ごもると、罪を生み出し、罪は成熟して死をもたらすのです ⇒ サタンの誘いに同意する時、罪が生まれる」のだ。光に従わない時、誘惑の餌食になる。悪意を抱きつつも 《 しらを切って 》 最後の晩餐の席に臨むユダの結末は、闇であっても当然なのだ。

※ 良心に従わない末路の恐ろしさをユダに見て警戒を !!

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2018年11月17日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 94


ルカの福音書21章5節〜38節

先週は、頑( かたく )なな宗教家たちと語られるのに渾身の力を絞り出されてお疲れだったと思われる主が、「目を上げて」目にされた光景から、21章3節 「この貧しいやもめは・・・」と、彼女の信仰を褒められた 《 主の評価規準は何処に 》 を学んだ。

@ 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される点に。
「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのではない。
彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるものだった。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。
何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。
しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人たちの被害者でもあり、献金も、 “ だから、出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いないが、捧げたかったのだ。

A 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される点に。
金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金には、やもめの家を食い尽くして得たものが入っていると考えられる。
霊の世界は、善行そのものに価値があるのではなく、生活の在り方を問う。マタイ 5章23、24節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。

※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい、と。


今朝は、21章5節から21章全体を拝読したが、マタイ、マルコでは、この説教は弟子たちに 《 オリーブ山でなされた 》 とあるが、地上でのご生涯を閉じる最後の長い説教である。
説教の内容は、5、6節で、「宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。『 あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。 』 」と交わされた 《 終末の予告について 》 である。
この終末については、これまでも言及しておられたことでもある。13章35節 「見よ、おまえたちの家は見捨てられる」、19章41〜44節 「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『 もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。 』 」と。
これまでの予告は、主の復活後のペンテコステによる聖霊の注ぎ以降、『 使徒の働き 』 に見る宣教への直接的迫害が本格化し、ローマ帝国の圧倒的権力によってA.D.70年、エルサレムが陥落・滅亡に至ることについてであった。
しかしこの21章では、そのエルサレム滅亡と主の再臨による世の終わりとを重ねての予告となっている。

ということは、将来的ご自身の再臨を見据えて、身近に迫っているエルサレム滅亡を語り、エルサレム滅亡を語りつつ、やがての再臨について語っておられるというのだ。
主は弟子たちから、7節 「いつ・・・ですか。・・・しるしは」と尋ねられて答えられた 《 顕著な内容 》 は・・・。
8節 「わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『 私こそ、その者だ 』 とか 『 時は近づいた 』 とか言います」と偽キリストの出現/9節 「戦争や暴動」、10節 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」/11節 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」/12節 「迫害」/20節 「エルサレムが軍隊に囲まれる」/24節 「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」/25、26節 「太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです」とある天変地異。このような出来事は、主のこの予告から二千年の間に、諸現象として実際起こっていることであり、近年においては、その規模、発生頻度において深刻化し、その現象が周囲に及ぼす影響力の甚大さ、それこそ未曾有の出来事とか、未だかつて経験したことのない出来事とかといった言葉で説明されるようになっていることから極めて現実的な問題なのだ。

こうした事実を前に鳴らされている警鐘とは ?

@ 言及されている 《 時 》 を弁( わきま )えるべきこと。

a. 20節 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」、24節b 「異邦人の時が満ちるまで【異邦人の世の権力が支配する全期間】、エルサレムは・・・踏み荒らされます」。目前に迫ったA.D.70年のローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊とユダヤ人離散の予告と同時に、終末が意味されている。cf. 別プリント【国家民族法 : ユダヤ人の国か民主国家か】
b. 22節 「書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです」 ⇒ 20章16節の成就 ⇒ 申命記 28章15〜68節。

A キリスト者として心得るべきこと。

a. 12〜19節、迫害を覚悟し、その迫害を恐れずに証の機会とし、忍耐によって自分のいのちを勝ち取るべきこと。
b. 25〜28節、諸国の民が恐怖に襲われる中、「身を起こし、頭を上げ」、神の約束に堅く立つべきこと。33節 「天地は消え去ります。しかし・・・」だから。又、36節b 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」、絶えざる神との交わりに生きるべきこと。
c. 34節、生活【交際関係 ? 思い煩い ?】の吟味に怠りがないように、気を付けるべきこと。それらが「罠」となるから。

※ 宮の美しさに感嘆する声( 5節、マルコでは13章1節 )を耳にされて語られた主の説教は、形ある全ての物の破壊を宣言し木っ端微塵にされるお方から出ている宣言であると、心したい。

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