2018年10月27日

献堂十九周年記念 宣教礼拝


ヨハネの黙示録10章8節〜11節

20年前の初夏 《 マタイの5章から 》 灯された明かりを、升の下から燭台の上に置くようにとのビジョンの下に、高松市栗林町からその時には未だ綾歌郡だった国分寺町に宣教の拠点を移すべく直ちにお従いした群れ、翌年1999年のちょうど今日の日( 9/23 )に献堂の運びになり、今朝は折しも献堂十九周年記念の日を礼拝をもって迎えた。
こうして記念の日を迎える都度、私たちは、小さな群れには途轍もない難しいと思われた会堂建築に際して 《 升の下から燭台の上に 》 とのビジョンを与えて励まし、従わせてくださった主を心から礼拝して記念し、更に、ビジョンを再確認するよう心したい。
主を頭とする教会が、頭なる主のみ体に連なる肢々であるお互いが、キリスト者としてこの終末を 《 如何に生きるべきかの再確認 》 をである。

今朝は、迫害下にあって、1章9〜20節 「パトモスという島」での流刑中、使徒ヨハネが、復活の主から直接的顕現に与って書き記すようにと託された黙示録に思いを寄せたい。
ヨシュア会とベタニヤ会では、『 小羊の王国 』 を学び終えたばかりだが、印象深く心に刻まれた言葉がある。
79p 天の視座【視点】  “ ヨハネは孤島パトモスにありながら、聖霊によって時空を超えた神の御座に引き上げられ、天の礼拝を目撃し、再び地上へと戻ってくる。そのときたとえ眼前の現実は同じでも、それを見る視座は異なっている。彼は同じ現実を異なる光、天の新しい光の中で見つめ、地上の王国の本質を洞察した ” というもの。
このビジョンでヨハネは、殉教の日々に屈せず迫害下の教会を激励し続け、後継者を育成した。
その激励の Message の中心は、92、93p 小羊の逆説  “ 「ほふられた小羊」は敗北したかのように見えるが、実際は勝利している。来臨まで地上では、「毒麦」が根を張り、「獣の国」が勢力を広げ、この「世」はサタンのものとなったかのように見える。それゆえ来臨前には「神の国」は隠されており、その王権は苦難と結びつき、「小羊」キリストの十字架の王国として逆説的に現れる。・・・キリストの来臨によって闇の力は完全に滅ぼされ、一切が新しくされる ” に。
主の来臨を待ち望み、それ程遠くはないと考えられる時代にある今こそ、ヨハネへの Message を今日的 Message として耳をそばだて、聞かなければならないとの緊張感をもって、今朝のおことばに与りたい。
《 時空を超えて見せられた幻の一つ 》 御使いがヨハネに与えた指示、10章9節b’ 「それを取って食べてしまいなさい」に耳を傾けたい。

@ この「取って食べてしまいなさい」とある「それ」とは ?

御使いの手にある ※ 2節 「開かれた小さな巻物」、神がこの後、行おうとしておられる偉大なみわざについての記録。
御使いは、9節c 「それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い」と言っている。その甘さについては、詩篇 19篇9、10節、119篇103節とあるが、実際、神の御心の啓示は、 《 苦さと甘さ 》 との両面があるのだ、と。その「苦い」というのは、彼の「腹には」であって、「口には蜜のように甘い」というもの。
巻物を口にしたヨハネが即、甘さを経験するや否や、間もなく、神の御心を知る者となって 《 深い悲しみ 》 を味わう。地上にあって、「悲しみの人」として生きられた主の悲しみをである。自らの罪を認めず、悔い改めることもなく、自らの罪の為に滅びを余儀なくされる悲しむべき事実は、罪を裁かざるを得なくされる神の悲しみをもたらす。

A その巻物を「食べてしまいなさい」とは ?

御使いが 《 巻物を食べなさい 》 と、象徴的表現によって言っていることとは、単に聞きなさいでもなく、読みなさいでもなく 《 食べなさい !! 》 とは、みことばがあなたの血となり肉となるようにであり、その上「食べてしまいなさい」とあるのは、その徹底さ、一つも余さずに、自らの霊的経験となるようにということに他ならない。
即ち、聖書的価値観が自らの価値観であり、生きる目的、生活の在り方の全てに、詩篇 40篇8節 「わが神よ 私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります」と告白された主の如くになること。ヨハネには、食べる経験においていい加減さがあってはならなかったのだ。
私たちはどうだろうか ? みことばを食べるには食べても、「食べてしまいなさい」と求められている程度においてどうだろうか ? みことばの持つ 《 苦み 》 を知る者 ?

B 11節 「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない」。

この「もう一度」とは、迫害によって群れから引き裂かれた離島にいるヨハネであるが、もう一度、福音宣教の機会を得て預言の為に出て行って、「預言しなければならない」との派遣である。ヨハネのみならず、私たちにおいても、巻物を食べてしまったならば、みことばを経験した者として、環境がどうであろうと、宣教事情が不利であろうと、責任を自覚して出て行くべきことを意味する。
ヨハネ同様、エゼキエルも又、巻物を食べるように言われて派遣された預言者。エゼキエル書 2章8節〜3章11節に顕著。巻物の性質についても明らかにされているが、同 2章10節 「それは表にも裏にも文字が書かれていた。そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた」とある。
実に、2章3節 「反抗する国民」、2章5、6、7、8節、3章9節 「反逆の家」を相手に出て行った時に、エゼキエル自身が、神が嘆いておられる深い嘆きを肌身で知ることになる。

※ 時代が仮に反逆的であろうと、使徒ヨハネが見た幻は逆転的勝利 !! テモテへの手紙 第二 4章2節 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」とあるが、ここで言われている困難さは、3、4節 「人々が健全な教えに耐えられなくなり・・・」にある。みことばの 《 甘さと苦さ 》 を味わう者として、出て行くお互いでありたい。

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2018年10月25日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 91


ルカの福音書20章27節〜40節

先週は、主への敵対心を募らせて捕縛の ※ 20節 「機会を狙っていた」宗教指導者たちが、義人を装った回し者を遣わして、主に ※ 22節で税金を納めることについての答弁を求めた時のこと、その彼らが又しても、知恵をもって対応された主に26節 「驚嘆して黙」らざるを得なくされた場面に注目した。
主は、彼らの ※ 23節 「悪巧み」を見抜かれて、24節のやり取りをされて後、「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と逆質問で彼らを正された。

@ 24節b 「カエサル【皇帝の称号】のです」に対し、25節、「カエサルのものはカエサルに・・・返しなさい」との指導で。
その「デナリ銀貨」の肖像は、皇帝ティべリウスで、銘は 《 神として崇められるアウグストゥスの子、カエサル・ティベリウス 》 ならば、カエサルへの義務として税を納めるべきと。「総督の支配と権威に引き渡す」陰謀は崩れることに。

A しかし主は、地上的な義務の指導で終わらせず、人としての本分について、25節b 「神のものは神に返しなさい」と、彼らをも神に立ち返らせようと指導された。
即ち、人間には 《 神の肖像と銘が刻まれている 》 ので、神に帰るべきだと。創世記 1章26、27節 「・・・人をご自身のかたちとして創造された」とある。しかし初めの人アダムが妻と共に犯した神への違反によって 《 神から身を隠した 》 が、その時以来、同 3章9節 「あなたはどこにいるのか。」との 《 神への立ち返り 》 を、悪巧みで近づく彼らにも迫られた。

※ 彼らは26節 「驚嘆して黙っ」たが、主の御心は、彼らの救いである。私たちも主と共に救霊者でありたい、と。


今朝は、主が、パリサイ人たちからの回し者に次いで質問を持ち掛けて来た ※ 27節 「復活」を否定するサドカイ人たちと向き合われた場面に注目したい。
このサドカイ人【エルサレム神殿を拠点に活動する祭司家系に連なる人々】とは、律法学者パリサイ人と共にその名を連ね 《 ユダヤ社会の【宗教・政治両面において権威を振るう】指導者たち 》 である。唯パリサイ人たちとは違い、彼らは ※ 27節 「復活があることを否定しているサドカイ人」だった。
その彼らが、26節 「民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった」挑戦者の敗退を見てか ? 自分たちこそと持ち掛けて来たのか ? 28〜33節の、「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」という質問だった。
彼らは、この質問を気の利いた難問だとして、自信満々に突き付けて来たと思われる。これは、復活を信じない彼らが、 “ 復活が如何に不合理であるか ” を立証する為の議論として持ち掛けたもの。 “ だから復活など、あり得ない !! ” として、主を悩ませようとの魂胆なのだ。
彼らが持ち出したこうした結婚については、申命記 25章5節 《 死んだ者の兄弟は未亡人となった彼の妻をめとり、彼の名を継ぐ 》 という義務で、聖書的根拠に基づいてはいた。
ところが彼らにとっては、不名誉にも番狂わせな結果となり、マタイの22章29節 「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています」との咎( とが )めを受けることに。

更には、彼らにとっては論敵関係にある律法学者たち【復活を信じる人々】からの ※ 39節 「先生、立派なお答えです」という反応は、揶揄的響きで聞かされることにもなった。
最終的には、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」と、太刀打ち出来ずに狼狽する始末に。
しかし、何と !! 主は無知な彼らを無下に退けずに、「聖書も神の力も知らないので、思い違いをして」いると、彼らを正し、愛によって 《 復活の事実について 》 実証された。

@ 34〜36節 「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世・・・は、めとることも嫁ぐこともありません」と。

主は、結婚関係は地上生活だけのことで、やがて迎えられる神の国においては最早ないと言われた。その理由として36節、「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです」と言われた。即ち、神が結婚を制定された時、創世記 1章28節 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『 生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ・・・ 』 」だったが、この地上から天に移された時には、その必要がないからだ。
そして、36節a’ 「彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです」と、やがて人はどのような形態で生きるのかを明確にしておられる。主はここで 《 ただし、と念を押して 》 誰もが神の国に与ることが出来る訳ではないと伝えておられる。35節 「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たち」であると。
神の国に相応しい人とは、ローマ人への手紙 6章4〜11節 「※ 5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」と 《 この霊的経験に与っている人 》 で、パウロの如く、ピリピ 3章7〜11節 「復活に達したい」人のこと。

A 更に主は、実に、モーセ五書を神のことばと認めても他の聖書を受け入れない人々であると知った上で、モーセの書である 《 出エジプト記 3章6節 》 を引用して、復活の事実を解明された。

37、38節 「モーセも柴の箇所で、主を 『 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 』 と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」と。この解釈は、アブラハムもイサクもヤコブも皆、今も不死の状態で生きており、やがて主の再臨の時、第一の復活に与るべく、その日を待っているのだと。
コリント人への手紙 第一 15章20節 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」、23節 「・・・まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」。

※ 主は、如何なる挑戦者をも、「聖書も神の力も知らない」からだとして 《 真理をもって冷静に解明されたお方 》。私たちにおいても、主のこの情熱に倣いたい。


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2018年10月20日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 90


ルカの福音書20章20節〜26節

先週は、主に殺意を抱く祭司長たちを意識して話された 《 ぶどう園の主人が悪い農夫を扱われた 》 たとえ話【9〜16節】に、主の、彼らに極限まで関わられる愛の現れを学んだ。

@ 深刻な罪のあからさまな指摘をされることに。
宗教指導者たちを「農夫」に擬( なぞら )え、過去神が送り続けられた預言者たち「しもべ」を手荒く扱って【10〜15節 「そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた/打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた/傷を負わせて追い出した/外に放り出して、殺してしまった」】、主人である神に反抗し続けたという事実の指摘である。
16節 「主人はやって来て農夫たちを殺し・・・」と言われた時、指導者たちは、19節で「自分たちを指して」いる、即ち、自らを罪ありと認めざるを得なくされている。

A 但し、主の裁きは 《 忍耐の末に 》 執行されるということに。
しかしこの容赦なくなされる裁きにも、何という神の寛容をもってのこと !! 一度、二度、三度の派遣は、彼らの悪を忍耐してのこと。息子が殺害された時に初めて、主人がやって来て「農夫たち」に鉄槌を下している。
主の裁きは、直ちにではなく、彼らを待ってのこと !! 残念ながら彼らは、自らの罪を罪と認めつつも砕かれて出ようとはせず、主を殺害することによって、自らの罪責感から逃れようと躍起になっていく。

※ 愛は、魂に対して責任ある態度を取らせるもの。それを見た私たちは果たして、本当に隣人を愛しているだろうか ? が探られた。責任ある関わりを常とする者でありたい、と。


今朝は、彼ら宗教家たちが、主に対する敵対心を募らせながら、20節 「さて、機会を狙っていた彼らは・・・」と、「義人を装った回し者を遣わした」時のこと、又しても主が知恵をもって対応された為、26節 「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙」らざるを得なくされたという場面に注目したい。
この「回し者」とは、マタイの福音書 22章16節には「自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと」とある。パリサイ人とヘロデ党員【大多数のユダヤ人がローマの支配からの解放を願っている中、唯一、ヘロデ王朝を支持し、ローマの支配を望んでいた反パリサイ派のユダヤ人グループ】とは日頃から犬猿の間柄だったが、主を抹殺したいとすることでは一致していたのでパリサイ人が彼らに協力を求めた形である。
彼らの共通的狙いは、20節b 「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」と明確で、その為の仕掛けが、彼らの質問である。
その初めに、21節 「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」との媚びへつらった上で、22節 「ところで」と本題に入り、「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」だった。
主にはこれらの質問が ※ 23節 「悪巧み」によるものと見抜かれたので彼らは圧倒された。何故なら、彼らには願っていた答え【納める必要がない】が返って来なかったからである。
彼らに有無を言わせなかった主の回答は、25節 「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」だった。一体誰が、このような回答が返って来ると想像できただろうか !! 主のこの回答から、主が実に「真理に基づいて神の道を教えておられる」ことが、彼らには皮肉にも突き付けられることになり、同時に、彼らへの神を求めさせる機会が又しても与えられることになっているとは !!
主は、彼らの ※ 22節 「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは・・・」の質問に、24、「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」と逆質問で、彼らの悪巧みに生きる地上生活を正されることになった。

@ 24節b 「カエサル【皇帝の称号】のです」に対し、25、「カエサルのものはカエサルに・・・返しなさい」との指導。

その「デナリ銀貨」の肖像は、皇帝ティべリウスの頭像で、刻まれている銘は 《 神として崇められるアウグストゥスの子、カエサル・ティベリウス 》 だった。
従って、カエサルの銘が刻まれているならば、当然の義務として税を納めなさいとの指導だった。パリサイ人は、主が税を納めなくても良いと言うだろうと期待していたからこそ、ヘロデ党員と結託したのだが、こう言われたのでは、「総督の支配と権威に引き渡す」陰謀は崩れることに。
パウロが、ローマ人への手紙 13章で、上に立つ権威に従うべきと伝えて ※ 6、7節 「同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです」と指導したのも、主のこの姿勢に則( のっと )ってのこと。

A しかし主は、地上的な義務の指導で終わらせず、人としての本分について、25節b 「神のものは神に返しなさい」と、彼らをも神に立ち返らせようと指導された。

「デナリ銀貨」を ※ 25節a’ 「カエサルのもの」と言われ、そこに、彼らローマ帝国における神として礼拝されるカエサルの頭像が刻まれているのであれば、25節b 「神のものは」、即ち、人間には 《 神の肖像と銘が刻まれている 》 との最も重要な真理を明らかにされ、「神に返しなさい」と、人間は神に帰らなければならないと指導されたのだ。このことは 《 ローマ社会の皇帝礼拝の罪 》 の指摘でもある。
創世記 1章26、27節 「・・・人をご自身のかたちとして創造された」とあるからである。しかし初めの人アダムが妻と共に犯した神への違反によって 《 人は堕落し、神の形を喪失した 》。その時主が彼らに語り掛けられたおことばは、同 3章9節 「あなたはどこにいるのか」であり、その日以来今日まで、御子によって立ち返るように招いておられる。
エゼキエル書 33章10、11節 「・・・わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか」と。
主は、彼らの質問による悪巧みをすら彼らの救霊の機会として捕らえ 《 神に立ち返るよう 》 迫られたのだ。

※ 彼らは、26節 「驚嘆して黙ってしまった」が、主の御心は、彼らの救いである。私たちも主と共に救霊者でありたい。

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