2018年09月27日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 84


ルカの福音書19章1節〜10節

先週は、「目が見えるようにしてください。」と主に求めて、主から ※ 42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と伝えられた 《 盲人の信仰 》 に学んだ。

@ 主を、38、39節 「ダビデの子」、救い主と認めた信仰。
この称号はこの世の王としてのメシアを期待させ、大多数の人々がそうだった中、真に霊的に王なるお方として待望する少数の中の一人だった。

A 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」時、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが」、その非難にもめげず、「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。
彼は、40節 「イエスは立ち止まって」、41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」とのおことばを主から頂いた !!
何と彼は、「主よ。目が見えるようにしてください。」と !! 「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかった彼が、主を「ダビデの子」と知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりに抱いた最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したからだったのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」というのだ。

※  “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい、と。


今朝は、主がエリコの町に入られて、あらかじめ会おうと心積もりしておられたザアカイと出会われた時のことに注目を。
このザアカイとは、2節によると「取税人のかしらで、金持ちであった」とあり、3、4節 「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」人として出て来る。
何とそのザアカイは、主から ※ 5節 「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と、声を掛けられたのだ。
幸いにもザアカイは直ちに、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」、遂に、9節 「今日、救いがこの家に来ました」と、主との個人的な関係に導かれた。その時直ちに、8節 「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と、これまでの生き方【「だれかから」とは、もしそうしていたのならという仮定的な意味ではなく、断定的な意味で「不正に税を取り立てていたので」と】情け知らずの貪欲から完全に方向転換して、生活が変えられた !!
方向転換するとは、今日までの生き方が、いかに誤っていたかを知った時、それを常軌を逸していたと認め、即ち、的外れな生き方・罪深い生活だったと認め、この事実を告白し、憎み、正されたいと赦しを乞い、赦しを信じる全てを意味する。赦しを得る為に、償( つぐな )いは無用【ローマ人への手紙 3章23〜26節】なので、ザアカイの償いは、主の愛への感動故のものに過ぎない。

主は、このザアカイを「失われた者」と言われた。
それは、彼が、自らのこれまでの生き方に満足していなかった人だったことを意味している。
彼は人目を気にせず、大人げもなく、3節a’ 「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」、4節 「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」ここには、主への単なる好奇心からではなく、3節a 「どんな方かを見ようとした」とあり、噂で聞いていたからと思われるが、ここに彼の渇望が伺える !!
「失われた者」とは、自分ではこのままで良くないと知りつつも、自分でどうしたら良いのか ? 本能的に、造り主に帰りたいと思いながらも、帰り方が分からず、15章4節 「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」と言われるお方に見付け出して頂く必要のある者のこと。
ここで、19章10節 「失われた者を捜して救うために来」られたと証された主に注目して、Message としたい。

@ 5節 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『 ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。 』 」と、個人的にその人の必要を知って近づかれるお方。

主が、「ザアカイ、・・・降りて来なさい」と言われたのは、英訳 「for today I must stay at your house. ( 泊まらなければならない )」とは !! 主のご意志の強さが伝えられていて、主の一人の失われた者への情熱を見る。
主は、私たちを個々に知って捜しておられる。ヤコブの井戸に腰を下ろして、一人のサマリア人を待っておられたあの時の主のお気持ちも同様なのだ。ヨハネの福音書 4章4節 詳訳 「サマリヤを通って行かれる必要があった」と。
ザアカイの必要も、サマリアの婦人の必要も、主ご自身の最大の関心事であり、その人個人の問題ではないからだ。
ペテロの手紙 第一 2章21〜25節に主の心がある。「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」と。

A 7節 「人々はみな、これを見て、『 あの人は罪人のところに行って客となった 』 と文句を言った」とあるが、非難に動揺せず、淡々とご自身の確信する所に生きられるお方。

ザアカイは、主の招きに直ちに応じて、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」て救われた。
実際主は、「失われた者」を捜しておられると学んだが、悲しいことには、ザアカイを罪人呼ばわりする人々には、自らの失われた者であるとの自覚がない為に、与り得ない現実がある。何故なら、ザアカイの悪事にばかり関心を抱き、自らの内的必要に目を向けないからである。彼らは、ザアカイだけでなく、「罪人のところに行って客となった」主の行動が気になり、罪人に対する扱いに不満を抱く始末。
何と !! 彼らとは対照的に、ザアカイも又、人目を憚( はばか )らない主に同様、7節の非難を耳にしつつも、8節 「しかし」と、躊躇せずに信仰告白している !!

※ 主に尋ねられ、見出されたのが、私たちであるとは !!

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2018年09月26日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 83


ルカの福音書18章35節〜43節

先週は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」ご受難の予告をされ( これで三度目となる )、驚くべきことには、34節 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実に注目した。
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らには分からなくさせていたのだろうか ? この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことである !! と。
彼らが主の弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 といった肉性が優位を占めていたから。
彼らが主から初めてご自身の受難について聞かされた時に取った態度、マタイ 16章22、23節で明瞭。主は、彼に、『 人間の本性に属することを考えている 』 と叱責された。
世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何で ? 主の関心事が何で ? 重荷も分からないという現実。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。
彼は、5節 「ああ、私は・・・」と内的汚れを知って叫んだ時、血潮による清めの霊的経験に導かれ、8節の「だれを・・・」との主の声に触れ、「ここに私がおります・・・」と応えたのだ。

※ 肉性の清めに比例して、主の今日的声を聞き、重荷を共にする者とされるとの事実を覚えて、ここに与りたいと。


今朝は、35節 「イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた」その彼が、遂には、42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救い【詳訳 : 癒され】ました。」という記事に学びたい。主から「あなたの信仰があなたを救いました」と言われた 《 彼の信仰 》 とは ?

@ 主を、38、39節 「ダビデの子」と呼ぶ信仰。

彼はこれまでの主の働きを耳にし、主を「ダビデの子」、即ち、救い主と認めて信仰に立っていた。この「ダビデの子」とはメシアの称号で、旧約・新約共に、この事実を明確にしている。
イザヤ書 9章6、7節 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」/ローマ人への手紙 1章2〜4節 「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と。
この称号は、多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなっていたが、真に霊的に王なるお方として待望する人々が居た。ヨハネの福音書 7章40〜42節 「・・・キリストはダビデの子孫から・・・出ると、聖書は言っている」と。
彼は、多くの人々が主の働きを見聞きしても主を「ダビデの子孫」であるとは認めず、唯、自分たちのユダヤ国の王としてしか認めない中、このメシア信仰を持って出て来たのだ。主の弟子たちですらこの世的な望みを持って主に従っていたことを考える時、彼の信仰は素晴らしい !!
彼は、「ダビデの子のイエス様」とお呼びすると、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめた」という厳しい状況に置かれたが、何と主はその人々の排斥行為を退け、40節 「立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」。何故ならば、彼のその信仰を喜ばれたからである !!

A 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく 『 ダビデの子よ、私をあわれんでください 』 と叫んだ」とあるように、心無い人々からの非難にもめげず、あきらめず、むしろ「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。

40節 「イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」ここに、彼の信仰を喜ばれた主のお心を見たが、そうであるのと同時に、41、42節とは、その時 《 連れて来られた彼と主との会話 》 であるが、彼の主を期待する信仰を喜ばれたのを見る。41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」に、「主よ。目が見えるようにしてください。」だった。
彼の生活振りは、35節 「道端に座り、物乞いをしていた」とあるが、このままの生活で良いとは思わなかったのだ。
自らの現状に甘んずることなく、もし主に求めるところを良しとして下さるならばと、積極的に改善を求める意欲である。主が彼の求めに直ちに応じて下さった事実を見る時、彼の〈 求める動機 〉が純潔だったのを見る。ヤコブの手紙 4章2、3節 「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。・・・自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」。
その動機の純潔も、主を「ダビデの子」と信じるまでは、自らの境遇について受け身でしかなく、「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかったのでは ?
しかし主を「ダビデの子」として知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりの最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」のだ。ツァラアトから癒やされた10人の内、癒やされたこと自体を喜んだ9人のユダヤ人ではなく、癒やされたことを感謝する為に戻って来たサマリア人のように( ルカ 17・11〜 )、主の御心に従う生涯に導かれた !!

※  “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい。


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2018年09月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 82


ルカの福音書18章31節〜34節

先週は、主が言われた「子どものように」とは相容れない 《 一人の ※ 18節 「指導者」を扱われた扱い 》 に注目した。
主は、18節 「永遠のいのちを受け継ぐ」為に、「何をしたら・・・」と尋ねて来た彼に、「戒めを守りなさい」と言われ、20節では、対人関係における戒めを示された。主の言われた「守りなさい」とは、 《 守れれば良い 》 の意味でではない。 《 戒めによって自らの正体を知り、何が出来る者かではなく、何者か ? 》 を知って謙ることが出来るように、であると。
何と !! 彼はためらいもなく「守ってきました」と言った。主は【マルコ 10章21節 「彼を見つめ、いつくしんで」と】、22節 《 根本的・本質的な欠け 》 を知らせる為、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われた。それは彼が、実は「戒めを守」れてはいない自らを知る必要があったから。
23節 「大変な金持ちだった」彼は、「これを聞いて、非常に悲しんだ」。彼は富に執着し、貧しい者への配慮( 申命記 15章7〜11節 )を好まなかったからだ !!
彼は自らの正体、神の聖前に罪深い者との自覚に立ち、正直に告白するよう促されたが、彼は求めながらも主の許を離れた。もし彼が自らの実情を告白し、謙れば、27節 「人にはできないことが、神にはできる」のだ。

※ これを聞いた弟子たちは、28節 「ご覧ください」と、意気揚々と言って来たが、マタイ 19章30節 「しかし、・・・後にいる多くの者が先になります」の余韻を残されたお心には留意して従いたい、と。


今朝は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」、ご受難を予告された記事に注目する。
主の予告は、31b〜33節 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲( あざけ )られ、辱( はずかし )められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」だったが、弟子たちの受け止めは、どうだったのだろうか。
受難の予告について聞かされたのは、ここで三度目のこと。
先ずは五つのパンと二匹の魚による奇跡後、弟子たちが主を「神のキリストです」との告白直後、9章21、22節 「するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた」と。
二度目は、変貌山から下りるや、てんかんの少年を癒やした奇跡後、9章44節 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」と。そしてここで、三度目となる。19章は、エリコに入られた時の出来事になるので、エルサレムまで直線距離で20キロ、残すところ僅かな地点まで、旅が続けられた時のこととなる。
主は、予告の内容は極めて非人道的・理不尽な扱いではあるが 《 預言通りに実現する 》 と明言された。

その預言の代表的記事は 《 イザヤ書 53章、詩篇 22篇 》 であるが、( 今はお開きせずに )ここで考えたいことは、34節a 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実である。
驚くべきことではあるが、その理由が、34節b 「彼らにはこのことばが隠されていて話されたことが理解できなかった」からである、とある !!
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らに分からなくさせていたのだろうか ?
この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことではないか !!
考えられることは、彼らが主を信じ、弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ肉性が優位を占めていることにあるのでは ? 彼らにとって 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 だったからである。
彼らは、主から初めてご自身の受難について聞かされた時、どのような態度を取ったかを見れば分かる。
マタイの福音書 16章21〜23節に言及されている。
22節 詳訳 「【すると】、ペテロはイエスとひそかに話す為にイエスをわきへ引き寄せて、『 主よ、断じて駄目です。そんなことがあなたに決して起こってはなりません 』 と言って、厳しくイエスを責め〈 非難し 〉始めた」とある。ペテロのこの態度が、どのような動機によるものだったかは、その彼を扱われた主のおことばで明白である。
23節 詳訳 「しかしイエスは【ペテロから】顔を背けて、彼に言われた。『 サタンよ。わたしの後ろに退け。お前はわたしの妨げだ〈 わたしにとって躓( つまず )き、妨害、罠だ 〉。お前は神のご本性【ご性質】に属することではなくて、人間の本性に属することを考えている 』 」とある。
ペテロを初め、弟子たち皆の期待していたことは、使徒の働き 1章6節 「イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」に顕著であり、主が王として君臨される時、栄誉ある立場に着くことだった。

世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何であるのか ? 主が求めておられることへの関心も、重荷としておられることが何であるのかについても分からないという事なのだ。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。この記事は、彼の今までの預言者としての献身は何だったのか ? 8節の「だれを・・・」との主の声は新しく、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と応えたのだ。それは彼が、5節 「ああ、私は・・・」と神の聖なる臨在によって自らの汚れを知らされ、告白後、6、7節 「・・・あなたの咎( とが )は取り除かれ、あなたの罪も赦された」との霊的経験に与ったからだ。
一にも二にも、肉性がきよめられ続けることによって、主の語られるところが分かるようにされるというのだ。

※ 主の今日的声に聞ける、重荷を共にする者でありたい。

posted by luckyfachan at 22:46| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする